あとの 150 坪かは \50 にもなったらと思うらしいから。それは笑い話ですものね。都会風になるのかというように思えたが、あの壁を見たらすっかりわかりました。そういう風になるのではありませんね。農家は農作をやめて(土地を買収されたから)小金のあるのは、それで商売でも初めようとしているらしいが、ああいうところは大規模の購買組合をもっているのだからその点も大したことはないでしょう。裏の山をきりひらいて官舎が建つ由。
 富ちゃんは、朝、この間うちは五時半、夜は八時すぎという働き(トロの数をしらべ、トロへ土の盛りようをカントクする、棒頭《ぼうがしら》的な仕事)それが年度がわりの一区切りで十八日から六時半夕刻四時ということになったそうです。月給四十円、手当十円ぐらい。すっかり真黒になっている。そんな仕事でもそれだけよくやる。余りよくやるので合点が行かないようなので、いろいろ話したら富ちゃんの気持もいくらか判った。マア土地も整理され、すこし金も出来、これで一安心したから、これからは先のように一つ挽回してやろうという風で焦慮してジタバタしないですむから、四五十円でもかっちりとやってそれで暮して(暮せる由、叔母さん、せっせと小遣帖つけていられる)元はくずさず、やってゆき、自分の勤めも追々事務にうつることが出来る望みがあるという見とおしです。
 一つ儲けて、家をとりかえすには株しかない。株がええ、そう叔父さんから云い出して株をやるようにさせられた由。元来富ちゃん気が小さく、つまりいくらかしまって安心している金がないと気が落付かなくなるそういう風なのですね。だから今度の整理がうまく行ったのも、あのひととしたらいいわけでしょう。それで、心祝のわけで私が去年の秋富ちゃんのゴタゴタのとき送って上げた旅費20[#「20」は縦中横]かえして下さいました。返して頂くつもりはなかったが、そういう一区切りのときであちらもそれで心持よいのであるから、では、と頂きました。私の方は大助り。隆ちゃんにいろいろ買ってやって底ぬけでしたから。隆ちゃんは、ああいう人で、何んでも、ハアもう何もいりません、と云ってばかりいるのだから。
 野原では、私は富ちゃんと叔母さまに何を云ったとお思いになりますか? 予算生活をせよという、全く柄にないことを云ったのですが、それは、あすこには必要なの。これまで定収がなくてその場その場。入れば何でもする、そういう気分でやられて来ているから初めて定収があって、それをきっちりつかってやってゆくことを学ばなければ、結局又「あるだけみたしてハヤないようになった」ということになりますからね。お嫁さんが来たら叔母さまにはどういうようにして上げた方が一家が円満にゆくかという具体案も話してきました。そしたら叔母さまがよろこんでね、こんなにいろいろ心つけて貰ってどうして恩をかえそうやら、いまに富雄が儲けたら、一つうんとお礼をすると仰云ったので、そら又儲けたら、が出たと又本当にすこし気持をわるくして申しました。その癖は根本から改める必要があると。何を富雄さんが儲け[#「儲け」に傍点]られましょう。ねえ。儲けられないのがあたり前です。稼ぐ、そして生活してゆく。それと儲けるとはちがう、全く。富ちゃんだっていやな顔をした。この儲けるというのは、どうも島田も野原も一つの癖で、よくない。儲けにゃ、儲けて貰わにゃ。深い考えもないが何ぞというとこれが出る。そして、やはり出るのは出るだけのことがあるというわけですね、現実に。
 十八日は、いつぞや私左の脚がつれてびっこ引いていましたろう? 又あのようになってしまって歩けず一日野原の家にいました。十六日に広島で非常に歩いたもので。
 十九日の午後一時半のバスでかえりました。その朝お墓参りいたし、あのあたりを感じふかく眺め、お辞儀いたしました。菫の花が草の間に美しく咲いているし、れんげの花も一杯咲いている。やがて壁の内に入ってしまうところです。
 かえって来たら、こちらのうちに、おはぎができている。多賀神社の祭祝の由。それを御馳走になり、一番奥の、田を見渡す部屋の円食卓のところで帳簿をひっくりかえし(多賀子)そろばんをはじき(母上)私ペンを握って大仕事がはじまり。周南町になったので、特別税(所得)の申告があるのです。いろいろ商売のことがわかり、例えばタバコは〇・九の利率とか、塩は一カマス平均20[#「20」は縦中横]銭、肥料5/100以下の利益とか、なかなかためになりました。トラックの方のこともやっと分りました。金は大きく運転するが、又維持にもなかなかかかるものですね。それらをすっかり書きこみ、控えをとり、それから肥料配給申告書をつくり、これもなかなか面白く思いました。八月から配給実施で申告しないものはオミットになります。第二期というのが八月―十二月、三つに分けて四ヵ月ごとにするのでしょうか。これも様式をちゃんと写しをとったから来年は御不自由ありません。これ迄そういう記入は皆達ちゃんや他の人がやっていて大分弱っていらした折からようございました。米穀の方は実施は八月ごろからでしょうといっていらっしゃいます。どういうことになるのか不明です。まだそのお話はでませんでした。昨夜あたり、肥料を扱う店がかたまって、産業組合と対抗するより合をどこかでするからと迎えに来た由。丁度留守でよかったといっていらっしゃる。そういう対抗[#「対抗」に傍点]が、事情の本質をかえないものだし、見当ちがいなことはよくお分りですからその点安心です。只、肥料が固定して(種目)高価になるから農家は困るでしょう、そういっていらっしゃる。肥料など大抵のところでいいことに考えていらっしゃいます。
 二十日は、朝六時五十五分で出て、広島の連隊へゆき、十時半まで三十分ぐらい話し、私共買物、昼食に出て、三時―六時半頃までゆっくり話しました。営庭の草の上に坐って、折々雨が通ると傘をひろげて話しました。写真やがなかなか繁昌でその人群の間を写真機をかついで働いている。私たちも草の上に新聞をしいて坐っているままのところを撮らせました。出来たらお目にかけます。三人ともう一人、もとの家の(島田)馬車をひいていたりした高村という人の一人息子が第一乙だったのが召集され、去年五月から入って今隆ちゃんの隊で教育召集(一ヵ月)の教育掛をやっているという人と四人でとりました。(三人は縁起をかつぐから)
 薬や何かやはり少しは持ってゆけるということが十六日に会ってわかったので、早速クレオソート丸その他消毒石鹸まであるので、「班でこんだけ用意せちょるものはない云いよります」という状態になりました。すこし咳をしていますが元気だし、平静でちっともいつもとちがったことないし安心です。お母さん二十一日に宇品へいらっしゃりたいらしいが、あぶないし、隆ちゃんもきっといらっしゃらないという約束をおさせ申しました。広島は新緑でね。西練兵場のあたりの緑は実に美しい色です。六時に夕飯のラッパがなり、まだいてもよかったらしいけれども、隆ちゃん入浴しなければならないし、御飯もたべなければいけないからというわけで六時半ごろ営門を出ました。第一中隊の建物というのはずっと奥で、営門の方へ私たち歩きながら、広場を突切ってゆく隆ちゃんを見送っていて、あっちの角を曲ってしまうまでにこちら振向くかと思っていたら、私たちのいる門の方とは反対の馬場の方二度ばかりふりかえって、こっちは向かず行きました。そのふりかえりかた、ふりかえるときの肩の動かしかたなどあなたと実によく似ています。達ちゃんは一寸手を動かすときが似ている。そしてそれらはみんなつまりお父さんのおゆずりなのでしょうか、お母さんのお癖にはないから。面白いことね。写真でおわかりかどうか眼の形、ニュアンスではなく、形は、隆ちゃんの方があなたに余計似ています。お母さんの東京行を隆ちゃんもよろこんで、「ゆっくりあそーでおいでたがええ」と云っていました。気がお変りになって本当にいいでしょう。機会はいく度もあるかもしれないが、しかし常にその前髪をつかめですから、お出になったら出来るだけあとの思い出がたのしみでいらっしゃるようにして差しあげましょうね。そしたら来年六月頃私が又来る迄はもてましょう。それまでに達ちゃんが戻れば文句はなしですが。
 寿江子に手紙出して、お母さんのおふとんのことや何かたのみました。よくやっておくときょう返事来ました。万事私どもの方も好い都合のときですから、御ゆっくり願いましょう。これはまだプランにもならない思いつきですが、四月二十九日(天長節)三十日(日曜日)とつづいてそちらもお休みになりますから、もしかお疲れでなかったら日光へおつれしようかと思います。電車で行けるのでしょう? あっちへ行らしたことないでしょうし、この前野原の叔母さんが見えたときと同じ滞留の内容では、話の新局面――母の母たる局面がなくて、よくないだろうと思います。或はおかえりの折、熱海のそばの温泉へ一晩ぐらいおつれしてもいいかもしれないが。きっと日光はお気に入ると思います。一泊でね。伊豆山あたりへ一晩ゆくより話題となるでしょう。きょう、サロメチール買って、私の脚へよくすりこんだから、かえる迄にびっこは直さなければなりません。そして日光へでもおつれしましょう、と云っても私も知らないからたよりないようなものではあるが。
 岩本の小母さんが二十四日に来られ、私たちは二十五日の夜こちらを立ち、広島で「桜」にのりかえ(午後[#「午後」はママ]一時何分か)二十六日の午後四時四十分東京着です。何とかして二十六日の早朝つきたいと私一流のよくばりから考えたのですが、靖国神社の特別大祭のバスがどっさり出て、汽車は大いに混むので、やはり座席の数はきまっているのにした方がよいと思い、そちらは二十七日で仕方ないことになりました。なるたけ二人一緒に会えるようにいたします、そちらでもどうぞよろしく、朝のうち参りますから。
 徳山のお花見は丁度私のゆく一日前、お母さんは河村の細君とお出かけになった由です。ショールはよくお似合だし大層お気に入りで、もう二日のばしたらお花見にかけられたと云っていらっしゃいました。ずっと降ったりやんだりの天気で、きのうもコート着て助かりました。山崎さんの伯父さまにはお目にかかる折はないでしょう。達ちゃんはあっちからいくつか写真を送ってよこしています。そちらには一つも送りませんか、何か面変りして見えます、いかつうなったと云っていらっしゃる。
 きょうは隆ちゃんの宇品出発故、おひるにめばるの焼いたのを御飯と共にかげ膳になさいました。お天気がぱりっとしないでいけないこと。二時―四時に出発の由。多賀ちゃんは「タイア」を買いに櫛ヶ浜へゆきました。八十八円七十銭(一本)の由。それが二本かえた。夏迄大丈夫とのことです。なかなか品不足ですから。それに買うための証明書のようなものの扱いかたも一々警察(経済検察官)を経、それがこういう田舎では駐在ですからね。出征家族であるためガソリンもタイアも優先で、何不自由ありません。
 私の早寝早おきは大丈夫で、午前二時半までくり上りました。(広島へ出かける日。そしたらね、汽車の時刻を午前と午後とお間違えになったので、三時三十分とかのつもりで駅へ出たら、灯をつけた夜汽車が入って来て改札のところでびっくりまなこを見はっているうち出てしまって、おじゃん。三時十三分だったのです、午前[#「午前」に傍点]ならば。大笑いしてしまった。以来六時五十五分と決定)
 今日まで本は全くよめませんでした。これから二十四日迄すこしつめてよみます。かえると今度は半月は多忙ですから。おひさ[#「ひさ」に傍点]さんはおかみさんになるのにこまごまとしたお客様の料理を知らないでとこぼしていたから(うちのは常に美味でも書生流故)こんどは一つお母様のために私も腕をふるい、おひさ君の花嫁学校にも役立てましょう。おひささんはバカね、もうそろりそろりと私に当てます。私を見習ったというのでしょうか、良人についてはいつも自分の心
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