いろいろそちらの用も殖《ふ》え、又お母さんの御上京が単純でなくなるといやですし、今ならまだひさも居り、あの家の四畳半もお母さんのお部屋に当てられるし、今度一緒にお出になることに大体きまりました。岩本のおばさんがお留守番にさえ来て下されば。引越しがしてなくてよかったこと。この前(昭和九年のとき)は信濃町で、私はいず、お風呂も満足にお入りにならなかったのですから、今度は初めて用事といってもいくらかのびのびとしてともかく顕治さんの家へおいでになるのだから、ようございます。さっき野原の小母さんが迎えにいらして、私はこの手紙をかいてから六時のバスで野原へ参り十九日の午後まで泊って来ますが、その折、小母さんが一日がえにきょう会うたら次の日は百合子はんという風にせて、とおっしゃったら、お母さんが眼玉をクルリとお動かしになって、毎日会うてよいのどすやろと仰云った。そこで、私も思わず目玉をクルリとやりつつ、ええお会いになれます、とお答えした珍景がありました。どうも、あなたもこう人気があってはお忙しゅうございます。
 御法事をすましてから行こう(くり上げて)というお話もありましたが、私はどうしても御法事はちゃんと六月になさる方をおすすめして、とにかく出ていらして見て、あなたともよくお話しになってから、又六月に私が行くなりどうなりおきめになればよい、ということにきめました。初めて私たちの家へいらっしゃるわけですから、大いにのんびりおさせ申したいと私は今から忙しい気です。去年の秋野原のお母さんが計らぬことで先鞭をおつけになったから、お母さんも顕さんの家は御覧になりたいでしょう。今は皆が気がしまって居ります。その折お留守はなさりやすいからいい機会でしょう。
 野原の土地 320 坪が25[#「25」は縦中横]ずつで売れ、兼重の 4300 をかえした由。外に 150 坪とかそれ以上とかがあって、それは30[#「30」は縦中横]ならいつでも売れる由。家屋とその敷地はたっぷりあまって居るわけです。富ちゃんのお嫁の件。あの方はその家へ見合いのつもりで行ったら、どうしたわけか大変じだらくな姿でその女が出て来て、「男を男と思わんようなの」がひどく気にさわって勿論オジャン。これはそれで結構です。堅い農家の娘さんを貰うためにこちらのお母さんもお気づかいです、本人もその気だからようございましょう。
 あの奥の座敷のすぐとなりの売った地面に製材所が建ちかかっている由。前の鶏舎に朝鮮の人がうんとつまって住んでいる由。台所、事務所のあたりを人にかして、そこには別の一家が住んでいる由。野原もひどい変りようと想像されます。春の魚であるめばるもそんなものを釣っているよりは「稼いだ金で魚買うた方がやすくつく」そうで、めばる売りも来ません。東京の生活の気分と全然ちがう。一体この辺が、何か、目前の金の出入りに気をとられ、何か気分が変っている。躍進地帯ですから。じっくりした気がかけている。人と人との間の空気にそれが及ぼして居ります。ガソリン、タイヤ等、うちは出征家族ですから特別の便宜があって不自由して居りませんそうです。トラックの仕事はありすぎる位の由です。
 岩本さんの返事あり次第、私はなるたけ早くお母さんをおつれしてかえりたいと思って居ます。おちついて本をよむということも出来ず、何かそちらの机が恋しい。二十一日に隆ちゃんが出発したら四五日に立ちとうございます。お母さん東京にいらっしゃるならばゆっくりいて頂いていいから。早くかえったって同じですから。(私がこちらを)
 私は大変、大変、かわきです。かえって、一週間もおひとり占めにされては決してしわいことを云うのではないけれども、辛いところもある。どうぞよろしく願います。風邪はまだすっかりはよくなりませんが大丈夫ですから御心配なく。
 きのうは随分ひどく歩いて疲れて、きょうは顔まで腫《はれ》ぼったい程ですがそれでもおなかはケロリとしていて大助りです。
 あなたはずっと調子同じでいらっしゃるでしょうか。十五日に書いて下さいましたろうか? 隆ちゃんにはおことづけよくつたえました。達ちゃんがお母さん宛の手紙のなかで、子どものうちからあなたと離れて暮すことが多かったが、当地へ来てから初めて兄さんの頼りになることが身にしみてわかった、博識であることに敬服したというようなことがありました。これは実に大きい収穫であり、博識云々はともかく、頼りになるという感じは人間生活の通り一遍のことでは(相互的に)会得されないものですから、私はまことに感深くよみました。そこには、達ちゃんとしての生活に対する心持の成長が語られているわけですから。私はうれしいと感じてよみました。これまで屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》私が来て見て感じていたことから見れば、この進歩は、質の向上です。私はよく、一家族の間における人それぞれの影響、それのうけかたというものについて考えて居りましたから。強烈な存在と他のより強烈でないものがどう結びついてゆくかということは実に微妙ですから。リアクションがこれ又微妙な形であり得るのですから。ごく皮相な、当面の不便或はよくわからない迷惑感というものも作用し得るのですから。達ちゃんが、あなたを頼りになる兄として感じはじめたということは、達ちゃんがこれ迄にない辛苦や生死やに直面してからのことで、本気なものが出来て来ている証拠です。生活は何と複雑でしょう。これなど、私たち一家の面している時代的な生活の波の間から、ひろわれた一つの宝のようなものですね。決して架空にはなかったものです。
 お母さんも二人いよいよ出しておやりになって、心配ではあるが希望も十分もっていらっしゃるから何よりです。きのうのかえりの汽車の中では、私も何とも云えない心持になって、もしやお母さん涙をおこぼしになりはしまいかと気づかいましたが、窓のところに肱をかけて、何か小声で歌をうたっていらっしゃいました、軍歌の切れを。そしたら私の方が、唇が震えて来るようでした。東京へ行ってあなたに会って来よう、そういうお気持、十分十分わかるでしょう? 写真でない生《なま》の息子の顔を見たい、その気持には深い深いものがあると思われます。おそらくは自分で説明や分析のお出来にならないほどのものが。
 では二十一日ごろ又書きます。二十日に会っての様子も。呉々お大切に。風邪をひき易い暖かさですから。これから寿江子に手紙かいて、お母さんをお迎えする仕度をさせます。

 四月二十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 広島駅より(はがき)〕

 四月二十日午後七時十五分すぎ。(細かくは明日手紙で。)
 今隆ちゃんに一番しまいの面会をすまして広島駅にかえってきたところ。徳山行が八時二十分なので、お母さんは駅の待合室にお待ち頂き、一寸郵便局へ来てこれを出します。今日こちら降ったりやんだりの天気でしたが、十時ごろ連隊にゆき、買物不足分を補充して三時すぎから六時までゆっくりと話し、隆ちゃんもお母様も大満足で何よりでした。あなたからの電報か何か待ち心のようでしたが、こちらの電報御覧になったかしら。

 四月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 四月二十一日  第三十三信
 さて、きょうは沢山書くことがある日です。この手紙のつく前二十四日に寿江子があらましの様子申しあげましたろうが、十八日づけのこのお手紙、速達で二十日につきましたがそれはもう夜でね、母上と広島に行っていた留守。十時二十分かにかえって来て拝見した次第です。したがってこのお手紙について隆ちゃんに話すことは出来ませんでしたが、おことづけはよくしましたし遺憾はないと思います。
 十七日にあの手紙書いてから野原へゆきました。六時半のバスで。あの手紙書いているとき叔母さんがいらしてね。去年までの習慣で私はまだ二階で寝ているだろうと思って下に喋っていらしたのですって。そこへ私が下りて行ったというわけ。それから二時すぎおかえり迄つき合っていて、夕刻バスで行きました。この頃はガソリンがないから野原まで直通バスは一日一回です。上島田《カミシマダ》を少し出はずれると、野原へのあの一本道の幅が、ところどころ左手の山をくずして大分ひろく、車をかわすのに便利のようになっているのが目につきました。島田市《シマダイチ》附近は、もう大分活況を示していて、「山一組出張所」というような板カンバンが出て居り、すこしゆくと、あの池(景色のよい)の手前あたりの右手の山が切りくずされ朝鮮人のバラックが幾棟か建って洗濯物が干しつらねられ、土方たちがもう仕事からかえった時刻で、何だかかたまって遊んでいるのがバスの上から見えました。もうそのあたりから、緑暗色の外見は実に陰鬱なコンクリートの高さ一丈、底辺の厚み三尺三寸とかいう高壁が蜒々《えんえん》と松の木の間、小丘の裾をうねりつづいて丁度野原の家の前の辺が正門になる由。周囲の樹木の色との関係で平面に見たときああいう色は便宜なのだろうと理解されますが、道行人はエレベーションで見たのですから全く陰気な印象です。正門という辺はまだ出来ていず、その壁は野原のお墓ね、あの日当りのいい、いかにも野の真中の、あのずっと手前を通過して、郵便局よりの墓地のところで終る由。野原の奥座敷の鶏舎よりの廊下の障子をあけたら、いきなり朝鮮人の宿舎の窓があって(鶏舎をかりている)裸の男や何かいて面くらいました。その連中は鶏舎一棟を十五円でかりている。三つに室が分かれているところを一つは雑居、一つは食堂、一つは親方というのがその家族と住んでいる由。朝鮮の唄声、朝鮮の笛の音が、朝目をさましたときからきこえました。明笛は独特の哀調がありますね。唄は南ロシアの半東洋民族の節に似ていていろいろ興味があって、冨美子が、この人たちが、お米をとぐバケツで洗濯したり、一つの洗面器で洗ったり、煮たり、そこから食べたりするのをびっくりして観察して話していました。移動が激しいのと、文化がひくいのと、賃銀がひどいから(一トロッコ(一坪立方)三十銭。だが半分は親分がとる。一日十杯ぐらい。九十円のわけだが、体が一ヵ月働きつづけられまい。せいぜい二十日。その上、食費をはねる(親方))そういう生活になってしまうことを話したら尤もとうなずいていた。子供に対しては偏見もなく、そうやって来た子で野原の学校に上っているのもあるそうです。
 もとからある家の蔵と二階ね、おわかりになるでしょう? あすこをつけて大工に土地を売ったというのは昨年のこと。本年に入って、その大工氏は大いに営利に志し、元、風呂のあった側一杯に大きい二階つきの製材所を建築中です。機械をおくコンクリートの座などが、まだ壁のない建物の間に見えました。ここで機械鋸を使い出したらあのシューキューシューシャリという音、さぞやさぞでしょうね。国府津の家の裏に一軒あるの覚えていらっしゃるかしら。あそこ位はなれていても随分きこえるのですから。
 野原の家の洋間の事務所、そのとなりの部屋、それにつづく大きい二室、それは小倉の方から来た夫婦に子供三人家族に \15 でかしてある。いや応なく泣きこまれた由、あの辺貸家というものがないので。これは徳山の何かの店が出張店を出すためその弟家族をよびよせた由。小肥りのまことに博識(!)の奥さん[#「奥さん」に傍点]が、膝おしすすめて喋ろうとされるのにはさすがのおユリも降参しました。台所は共同にしていらっしゃる。野原の家の有様は大体そんな工合。大して落付かないというのでもないが、土地の空気は落付かず。あすこに建つものは特殊な性質のもので自給自足のものです。下うけ工場というようなもので外部が拡大することもないし、官舎の数だってきまっているし室積が消費面に当るし、野原は一定のところまでで地価にしろ、すべて飽和する。これは比較的早く飽和するにきまっているし住宅地とすれば、これ迄より条件はよくないわけです。危険の増大から。だから見果てぬ夢は見ないことと富ちゃんにも話したことです。地価なんかについてね。\25 になって売れたら
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