ese Soviet. V. A. Yakkontoff.「支那ソヴェート」
 この位です。スペイン問題は現実が変転して、今日を語るものはないわけです。この次の号にわかるでしょう。急に思いついたことですがペンギン叢書のカタログが日本にあるかしら。丸善でペンギンブックは大量扱っていますが、なかに或は興味のおありになるのがあるかも(小さい可能性)しれません。こんどよく見ましょう。
 いつかの二冊の本は、三月二十四日予約申込ズミです。念のために。薬のこと心にかけて下すってありがとう。あれも統制ですものね。一滴一滴大切に大切にのみこみますから、まるきり切れるような不注意は致しません。

 四月八日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月八日  第三十一信
 けさ云っていらした手紙、もう来るか来るかと思って待っているのにまだ来ません。さっき一寸外へ出てかえって来たところへ配達夫が何か四角くて白いもの入れて行くところだったので思わずにっこりして、うなずいて挨拶してやったけれど、出して見たら本やからの手紙。古書即売!
 三日から後、五日(二十九信)六日三十信と書きました。きょうは可笑しいことでさっき出ました。家のこと。私の女学校のとき習った国語の先生で或女のひと『源氏物語の女性』という本を出している人が、見えて娘さんの結婚の話が出て、それにつれ私の家の話が出ました。ここをどくのであったら、家主に話して娘夫婦を入れてほしいと。ところがもう先約ズミで、S子さん一家が、赤ちゃん御入来で、うちがせまいから、後へ是非ということです。では、もしかしたら、今S子さん一家のいるところへ若夫婦ならどうだろう、では赤ちゃんの様子ききがてら行って見ましょうということになり、Sさんの家へ出かけました。上り屋敷のすぐ横。
 行って見たら下八畳、二。上六畳。どっちも縁側つきで、隣りとくっついていて、(門ナシ)同じような家が四軒ずつ向いあっていて、すこしはうるさいかもしれないが淋しくない、いいしっかりした家でした。道々歩きながら話というものは何と面白く展開するでしょうと笑いました。だって私が林町へきめればS子さん一家うごき、S子さんたち動けば新郎新婦に家が出来る。ぐるぐるまわり工合が。
 この頃、随分うちのことでは考えて居ります。きょう云っていらした相対的なものだからということは本当です。それにユリは自分のライフワーク的な労働について益※[#二の字点、1−2−22]考えて来て居ります。そういう点からも、仰云るようにした方が一番いいのかしれませんね。私たちには私たち独特の生活があるわけであり、それを生活の形の上でもはっきりつかむだけ、十分内的にもつかむことが結局そういう仕事をさせるかさせないかにもかかって来る。主要な目標のためには生活をダイナミックに支配出来る必要があり、又自然そうなっても来る。家のことは単純にうちのことではなくていろいろ自分たちの生活の実質について考えさせます。ああ考え、そしてこう考える自分の心持を、そういう心持として又考えます。例えば三日の手紙におばあさんを招く仕度をしていることをかき、私はこの私たちの家を愛します、とあなたに向って云うとき、私は涙をこぼしたの。わかるところもあるでしょう? しかしそこには何か凡庸なものもあります。それもわかるでしょう? そういう工合。
 生活の必要につれてどんどん家を掌握する気分よりも、一般が家を固定の方向に、巣ごもり風に、感受して行く空気なので、沈潜と定着との間、微妙なものがあります。大局から見ると更に面白いものですね。地盤がずりかかっているとき、地震のとき、人は自分のつかまっている木の幹に、ここを先途としがみついて行くように。今度の家のことは、思うにこれまで私たちが持った家から家、例えば動坂から信濃町へのうつりかたとは、ずっと内容的に深化して居り、それにふれて動く感情も複雑です。しかし、こんなにしてこねくって一つの家というものを八方からからんでゆく心持は後まで思い出すようなものでしょう。
 家さがしの様々な心持。様々の情景。なかなか人生的です。これだから、家さがしや転宅したことのない人々の心持なんて、襞《ひだ》の足りないようなところが出来るわけね。
 この頃の心持、腰をおとして、ついてゆくに価すると思います。何だかあっちこっちから、これまで見馴れない芽がふいているようで。何かが新しく見える、変にくっきりと。むけた心、そのむけたあとに生えて来かかる肉芽。人間の成長の現実のありようは何と其々その人々、その夫婦たちの足の下にふみつけられてゆくその道以外にはないでしょう。
 この間の本には、文学運動の過程について。第三階級勃興当時の文学様式、その他文学方法論の問題、明治以後の文学思潮、文壇の風俗主義的傾向を排す等三十三篇、ヴォルガの船旅、ヤドローヴォ村の一日その他に書翰、年譜です。
 松山へ行ったら何とかいう川へ行こう、松山には少年時代の苦しい思い出しかないというようなの。その同じ年の秋に書いたやや長い返事二つ。その手紙のおくり主の手紙はもとよりわかりませんが返事から察して、その二十歳か二十一歳であったひとの思索力について考えました。そこには何か刻々に生成してゆく精神の敏感さが燃えている様が反映して居り、自分の二十歳ごろとくらべ、人生への翹望が情感的な爆発(翹望それなりで)をする女の燃えかた、燃えたい勢でたきつけの見わけのつきかねるようなのと、それが思索的な追求となって発現する典型とを、今日にまで及んでいるものとのつながりで、深い愛着をもって見較べました。歳月のへだたった今日に、微笑をもって回想されるというような点もあることがわかりました。
 夜になったがまだ待ち人は(手紙のことよ)来ず。あしたの朝になったらば郵便や、早くもって来い、駈けてもってこい。雨にぬらさずもって来い。

[#ここから2字下げ]
きょうは計らず非常にやさしい絃のピシカート(指頭奏法)で桜坊色の小さな丸帽子の主題が演奏されるのをききました。今猶耳についている。
[#ここで字下げ終わり]

 四月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月十二日  第三十一信
 きょうの暖かさ! もう桜がちりはじめました。このあたりにはよその庭に桜が割合にあって花見いたします。上落合の家ね、あすこの二階から見えるところに八重桜の大木があって、重々しく圧迫するような八重の花房を見たのを思い出します、あの時分の手紙にそんなこと書いたことがあったでしょう? 花の下蔭という光線のやさしい照りはえについては、徳山でのお花見で初めてその実感を得たことも。本当にあれは奇麗と感じられました、五年の間春はああいう花を見て大きくおなりになったわけね。
 さて、四月六日づけのお手紙、九日に頂き、返事きょう書くという珍しいことになりました。あの手紙に云われている歴史性のない抽象の人間性がない話、あれはいろいろ面白い(最も豊富な語義での)。全くよく人は本質的には何々だが、とか、それは原則的には云々だが、とそこに現実に出ているものについて十分突こまず、現象を仮象のように語る自他幻想癖をもって居りますね。一般の人々の内部にあるそういう癖の根は実に深い。決してカントを崇拝しなくても、そういう点では夥しいカントの門徒がいるわけです。こういう考えの癖が、癖として、身についたものの力でちゃんと見ぬけるということは、現実をどう見るか、それが即ちちゃんと見える上からのことだから。
 自分の長所を理解さすことが出来たら、と私が書いたりする気持、それは論理上、短所はしかじか。では長所は、なんという風に対比させて考えたり数えたりしているわけでもないのです。然し、お手紙で面白く感じました。やっぱり、ともかく私は長所という一つの観念を短所と対するものとしての従来の習慣なりにしたがって、深く考えず表現したのですから。そして、それにはそれだけの何かがあるわけですから。言葉は生きていますからね。ちょろりとある尻尾は出している。面白く思う。今の私の心持は、その発端にあっては大分鼻づらをこすりつけられ的であった勉強のおかげで、世界の大さ、立派さ、業績と称し得るものは(少くとも人類としての規模で)いかなるものであるか大分身にしみて来て居りますから、自分の長所とか短所とかいう風での自身のみかたや扱いかたで自分にかかずらう感情はありません。「閲歴」をふりかえって何かそこからみみずの糞のような気休めでもさがしたい程貧弱な気分でもありません。子供っぽい興がりから、すこし大人のよろこびというか、面白さの味がわかりかかって来ているようで、近頃は大いに心たのしいところがあるのです。ですから点のからさも、からさとしては感じません。からさに対置されるものを甘さとすれば、土台そっちから問題にしないことにしているわけですから。私について、二人で、こうだろう? そう思い、事実そうだろう? と語られ、それが会得されて、うなずき、そうね、そうなのね、と話す、そのような調子(これは会話で或場合言葉の表面と逆の内容を語るほど雄弁なものである、その調子として)として考えられます。わかったことによって自分が悲しいと思うとか思わないかは、その調子をかえるものではありませんから。自分がこうと希望して、その希望の正しいことも分っていて、そう行っていないとわかって、悲しくないものはないわけですもの。悲しみは人間を(そのつもりでいれば)馬鹿にはしますまい。幸福と称されるものの凡俗さが人間を、いつともしらず虚脱させるようには。
 睦は、遙か彼方云々は、一寸お話した通り。一般の危険しかも最も自覚され難い危険の一つとしての感想でした。その意味で、ひとごとでないというのは実際であると思います、あれを書いた気持も其故ですから。
 去年の夏からユリが強ばったというのでもなく、去年の諸事情が、私に自分の経て来た道というものをおのずから顧みさせ、目前の事情に耐えようとして、その過去の道の必然であったこと、意味のあったことを自身に確め、認める傾きになり、そういう傾向の折から、客観的な評価や省察のモメントが与えられたという関係を、動的に内的に見て、私としては、折も折からというべき適切な時期に適切な打開であり、それは、倍の効果で作用したと感じて居るのです。些かなりともプラスであるからこそ生じた事情であるとして、真にそれを内容づけるものであったという風にうけています。それをもって守りとするべきようなものがあると、固定的に考えなくても、心理の傾きとしてね。あるところまで高いところへ出て見ないと低いところの景色が見えない。それは生活上の様々なことでも云えて、興味つきぬところです。
 感想、一つの方(『中公』)は花圃の書いた明治初年時代の追想の鏡にうつし出されている当時代の開化[#「開化」に傍点]の姿の中にある矛盾や樋口一葉という人の、そういう貴婦人連の間にあっての境遇、芸術への反映というようなことと、先頃没した岡本かの子の人と作品とがその人の顔を見たときどうしても一つものとなってぴったり感じに来ない、その感じの妙なことについて。かの女の書く世界には、かの女らしい曲線、色、匂、重み、いろいろあるのだけれども、その人を見ると書くものがある空間をもってその人のまわりに立っている感じ。あれは妙でした。その人から生れたものにそういう妙な感じがあり得るでしょうか(そう表現はしなかったが)。これは稲ちゃんもはっきり感じています。其のことの中に、最後の書かれなかった小説がある感です。童女、童女と云ってね、その御主人が。もし大人の女の童女性というような言葉の好みを許すとして、そういうものが存在するとすれば、それは彼女の[#「彼女の」に傍点]夥しい、客観的になり立っていない幻想的な、デカダンスな、非人生的な作品の間にだんだん小さく遠のいて、丸く、白く、なおこっちを見ているように思われる、そういう彼女の哀れさです。勿論こんなことまでには云い及びませんが。『帝大新聞』には、文学とは何
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