奇心や詮索でこまるから。何しろ有名人[#「有名人」に傍点]ですからね。お察し下さい。来年六月できれるわけです。
 市場へ(目白の角の)買物に出てかえって来かけたらポツポツおちて来て、今は本降りになりました。池さんあしたの夜も雨が降ったりしたらきっとあのひとらしく感傷することでしょう。御せんべつに旅中読む本をあげようと思います、『ミケルアンジェロ』にしましょう。それと、「メチニコフ伝」。これは夫人が所謂文学的に書いていますが。(そうらしい、一寸立ちよみ)
 食べもののことについて書くの、いろいろの心持ですすまず、食べさせたくて口の中が苦くなるからいつも書かないのですが。きょうはとしよりのお献立に、春らしく蕗だの花菜(油菜の花の蕾のついたの)、うど、コリフラワーなどにとりの肉のたたいたのをおだんごにしたのをなべにします。それと胡瓜《きゅうり》。これは日本画「蔬菜之図」としておめにかけるわけです。何にしろ、うちの前の通りの古桜が花をつけましたから。そしたらちゃんと雨になる。日本の春の色彩。三月と四月とはお休みの多い月ですこと。一年のうちに一番多い月で、今年は暦の工合で重らず、二日つづきとなっているから。いいような、つまらないような。お休みは一日か二日で十分ね。
              [#図10、花瓶に活けられた花の絵](アネモネのつもり)。
 三日
 今、妙な服装でこれを書いて居ります。黒い着物に黒い帯、その上に黄色いどてらを羽織って。向いのうちの三宅さんというお役人の家で、十九歳になる三男が盲腸炎をこじらしてねんてん[#「ねんてん」に傍点]を起し昨日没しました。可哀そうに。おなかが痛いと云っていて、ちゃんとした手当せず、ダラダラのうち手おくれになった様子です。おじぎして来て、二時にお葬式ということ故角まで見送ろうと思って。
 昨夜は、それでもお婆さん御満足でした。戸塚では締切り間に合わず、やっと旦那さんだけ。この紳士がたは年よりを中心に話すなどという心がけがなくて、てんでの話題でてんでに喋って私は気がつかれましたが、又それも考えようでね。ああ、こんな風に、あれも喋っていたんだなと思い出され、私が心配したほどわるくはなかったかもしれません。おみやげに小さい袋にハンケチ二つ入れたのあげました。刺繍のしてあるきれいな布地があったのでバラさんが袋にしてくれたのを。秋また来るそうです。もう二三日でかえる由。かえる迄にもし天気がちゃんとしたら上野か溜池三宅坂の桜を見せにつれて行こうかと思って居ります。
 今夜、池さん、送りにゆくのはやめました。却って迷惑らしいから。この頃はそういうのが一つのモードなの。光子さん夫婦にしろ。私には送ってくれなくてお志は十分というようなところ。この頃何と人の生活の移動が多いでしょう。生れる。入学する。職業が代る、その他。元の友人の中で何人か重役が出来ているのだから大したものです、小・信、井・卓その他。
 きのうおかあさん、隆ちゃんに面会なすったわけですが、どうでしたろうね。お手紙が待たれる次第です。五月に入って隆ちゃん行くようでしたら、やはりつづけていた方がよいでしょうね。この間のお手紙には、来てくれるなら本当にうれしいから、さしくって、ゆっくり出来るだけ永くいるようにして来いと仰云ってでしたが。私はこんなに丸いのだから半分ずつにして結構なのに残念ね。
〔欄外に〕一ヵ月ばかりのうちに同じこの紙が十銭もあがりました。
 島田の生活はまるで変化ですから、私にとっていろいろ楽しくもあり、ためにもなり、見ることの範囲もひろがります、ああいう小さい町の家の女の生活というものは、島田ではじめて経験するのですから。北の地方とはそれに全然ちがうし。文化の古くからひらけているところと北方との相異はきつくて、東北ではあの位の町で、女はあんなにいい身なりをしません。ずっと富の程度がちがいます。諸形式もちがう。野原の家があって、あなたの少年時代は本当にようございましたね。島田のあの町の気分の中では、納まれず、或はじっくり育てなかったとはっきり感じられます。あすこは、何となし詰っている、そしてうのめたかのめです世俗的に。
 盲腸を切ってから、(この頃)夜床に入ったとき、それから朝目がさめたとき、体じゅうをずーっとのばして脚をそろえ、踵に力を入れて実にいい心持に全身のびをいたします、何年ぶりでしょう。こんなに力一杯ののびの出来るの。いつもこれまで右膝を立てたり、左脚でバスの中で立ったり、迚もこんなのびは出来なかった。仰向いて、しんからのびて、横向いて、しんからのびて、裸虫のようにうねって、そういうとき、我々の詩集の頁が音をたてて翻るようです。いろいろな活字を見せながら。詩譚をきかせて下さい。ピム、パムからよろしく、随分あなたに帽子をなおして頂きたい様子です。では明日。

 四月五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 四月四日  第二十九信
 きょうは、やっとぽっちりだけれども薬のおかげで、かぜの気分はましになりましたが、少なからず悲観して居るところです。かえりに新しい電車の方へ出たら、不図気がのって、それを横切って、「アパート」という案内で見ていたアパートをさがし当てて二つ見ました。雑司ヶ谷より。お話にならないので悲観しているところです。あと大塚よりに見るしかない。池袋よりは女と云えば女給さんその他コンキューで、保安のおとくいでしょうから。ほんの一時の好奇心か、その辺を歩きまわる足がかりの為かならばだけれども、そこに落付いて勉強もし仕事もしようというのには迚も駄目でした。同潤会のなどは、随分ちがいますね。久世山だって。この辺のは、アパートというものがよく分らないうちに建った古いものらしい。
 五日
 思いがけないものが降りました。かぜもひくわけ。四月に入ってからの雪とは珍らしい。かぜはましで、喉も食塩水でよくうがいした為痛みとれ、鼻の中のカサカサもメンソレータムでましです。夜なかに干いてしまって困りますが。
 片上全集第二巻が来たので、金原の医書より早くお送りしました。私には深い感興と共感とが感じられました。輯録《しゅうろく》されているものについて。二種の求めるものが一人の友人のうちに統一されないことに対する心持は、歳月や成長にかかわらず、胸へのうけかたはちがって来ているとしても依然としてあるものであり、人間的なものだと思います。私たちの生活のよろこびは、つまりそこにある求めるもののてりかえしであると云えるわけですから。人間のそういう調和というものは何と微妙でしょう。音楽が微妙な震動数の調和で諧調を発しるような。そして、一たびそのような調和を感じ合ったもの同士の、深い深いうちはまりかたというものはどうでしょう。一つのハーモニイはおのずからその中に次のハーモニイへの可能をふくんでいるから、或ところでの楽しい反覆《リフレイン》、あるところでの心ゆくばかりのテーマの展開と、時を経るまま日をふるままに益※[#二の字点、1−2−22]味いつきず。
 そういう点で、人間が美しさの頂点を知っているということは、非常なことであると感じます。生の横溢が、生を飛躍しそうな感覚にまで誘う、そういう刹那に迄到達する美しさを感じ合う心と肉体というもの。
 きょう、あれを読んだら様々の思いで、新たに、結び合うテムペラメントの必然の一つを感じました。
 そしてね、一つの内緒話がしたくなった。女にとってね、私のような女にとってね、そういう深い深いともなり(共鳴)を得ているということはどんなことを意味するか、どのような経験であるかということについて。
 あなたは抱月と須磨子の生涯を覚えていらっしゃるかしら。何故、須磨子は抱月のいなくなった後、生きていられなくなったでしょう。何故一年後にもう生きていない気になったでしょう。大変古いことで、世の中の人は物語として記憶しているだけでしょうが、私は、あなたの病気が本当にわるかったとき、時間の問題として語られたとき、自分のうちに生じた一つの激しい感情から、その疑問を、最もなまなましく自身に向けて感じました。逆に云えば、感情の頂点に於て、直観において、いきなり、一掴みにわかって、だが私たちとしては、それを全体との関係のうちにおき直して見なければならなかったというわけです。
 丁度その前後に、あなたはユリの旧作をいくつか読み返しなさいました。そして手紙の一つの中で、私のもって生れているいくつかの点にふれて、どんな困難をも凌いで行けるだろうということを云っていらした。実にくい入るように感じることがあった、けれどもあの時分には今書いているようには書くことが出来ず、通じるもののあったことさえ苦しくて、あなたの体が、ああ、やっと! と私の側《がわ》に実在するものとして感じられるようになった、その大歓喜の面からしか表現出来なかった。
 私たちが今日見合うよろこびの裡には何と多くのものがこもっていることでしょう。それだからこそ、うれしさは何と透明でしょう。
 ここまで書いたら不図思い出したのですが、私が虫退治したとき、切開後、肝心の一週間の経過をはっきりあなたにお知らせしなかったことを、あとで叱られましたね。くりかえし叱られたわね。ああいうとき、ああ仰云るのね。ああ、ああ。わかった。改めて、謹んで、ありがたく叱られ直していい気です。可笑しいこと。あのときは、叱られてると思っていたりして。そんな点で、ユリのバカと少しは癇癪もおこったのでしょう?
[#ここから18字下げ]
[#図11、インク壺の絵]ここからインクをつけて書いているインク壺。初めて小説を書いたとき父のくれたインク壺。茶色。
[#ここで字下げ終わり]
 きょう、お母さんからハガキが来ました。二日に面会なさったところ四月九日に第一期の検閲が終って、それからはいつ出動命令がかかるかしれず、発表にはならないが近日かもしれぬ由です。明日御相談いたしますが、私は心配で気がせいて来ました。
 十日一杯まで『中央公論』と『帝大新聞』の原稿があるのです。それをすまして、十二日頃島田へ行こうかと思いますがどうでしょう。そして、早いうちに隆ちゃんに会いとうございます。切迫するとむずかしくなるから。そして、五月六日にもしお母さんの御都合さえよかったら一ヵ月早めの御法事をして頂いて、八日ごろかえろうと思います。
 うちは、ひさが居ますから寿江子と二人で留守して貰います。それ[#「れ」に「ママ」の注記]前にどたばたは出来ないから。そして、寿江子に一週二度ぐらいそちらへ行って用事も伺いするようにして貰いましょう。
 猶、自分でもよく考えあなたにも助け舟願いますが、アパートを見て、大いに一考を要すと考え中です。そちらへ往復の時間だけいくらかつまっても、かえって落付けなければ能率が下ってつまらない。林町と二つに生活の分裂することは研究がいります。一週をわけて、土日月の朝まで林町にいるとしあと火水木金とアパートにいる、そう仮定して、アパートで暮す暮しかたの反動として林町でお客攻めもつらいし又所謂家庭的な雰囲気が恋しすぎるのもこまります。書いているもの、よんでいるもの、あっちこっち動かすのも困る。
 経済的の点から云っての問題とすれば、どんなに倹約してもここの私たちの家にいたいと感じました。直接、衣食住費は大したことないのです、うちは臨時費がかさむのです、いつも。ひさのあと、ひさの友達が来てもいいことになっていて、アパートがやれそうならそれは気が軽くサバサバするだろうと思うが、おめかけさんだの何だのと、女並みのつき合いをして、しなければいにくい空気故、それほどの興味もないところもあり。菊富士はあれでも下宿やでしたから、すこし又ちがっているわけです。なかなかむずかしい。さりとて林町へだけいるならば、やはり私の生活は全く別箇にやらねば、建ちゆきませんし。
 この家、今この家賃で決してもうない。借すものもない。だからうっかりこの家を引はらってしまえない実際です。仕方なく林町へ、というのはいやです。
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