いいと思います、そういう生活の形のときを予想していたのに、市内では、家は一つという風にきめて考えていたのは可笑しいと思うけれども。素人の二階は困ります。実に気がつまる。アパートを見つけたいと思って居ります。勿論今こうやっているようには行かなくて、様々の不便や何かあるでしょう。アパートにいる友人(ミケランジェロをくれた女のひと)が云っていたが両隣に夫婦者のひとたちがいたら迚も暮せぬそうです。ケンカすればするでやかましい。睦しければ睦しいでやかましい。そんな壁だって。物を書くような人が、いい加減のアパートでは結局落付けず皆家をもってしまう。それもわかります。私たちの条件では最も家庭的な生活をしようと思うと、見たところ及び日常も、家庭的という旧来の形はこわれなければならないというのは面白いこと。私たちというものの内に向った心持がなければ、仕事に向ってもそういう気持がなければ、アパートなんて、迚も駄目でしょう。私は独りっきりで一日じゅう口をきかないような暮しは苦しいの。ですから、人間の間にはさまったようなところで暮す方が、一人ならいいと思います。素人の二階なんかだと、下のおかみさんとの交渉が、私が女だけに厄介です、口を利くと何か対手の興味は身の上話的になるし。アパートには又それとしての不便がある。でも、あっちを根城としておけばやれないこともないでしょう。勤人の多いアパートが同じならよい。学生の多いところはこまります。どうせいれば誰かということは分る。一つ構えの中でのお客が多かったりしては。生活というものは生きているから、居るところに生活があるわけですから、あっちこっちせず、そちらに大部分暮すにはそれだけの条件が入用ですから、よくしらべましょう、(ひさが来月に入ってかえって来たら)そういう生活をやって見るということには興味があります。人々の中での生活というところが。机だの何だの鍵のかかるのにしなければなりません。親かぎでいくらでもいないとき開けて入れるのですから。誰が入るか、それも分らない。そこがいやね。一人はだからいやね。一つの家なら其だけはないが。空巣のほか。一番いやなのはこのことと手紙のこと。
毛糸足袋のこと、底が切れた話。切れてよかったこと。去年まるで底がいたんでいないのを見て、その底を撫でつつ、ああと考えたことを思い出します。切れたというのはうれしい報知です。春は、皆工合がはっきりしません。一年のうち、この頃から八重桜のぼってりと咲く時分私は一番苦しい時です。食慾も一体に低下します。どうか呉々お大事に。
私の薬のききめは、精神状態まで更新させるようです、きっと本当にそういうききめもあるわけですね。そちらにそれ位きく薬がおありになるでしょうか。いくらか利くのはあるでしょう、けれども。薬のききめが高まればよいと思います、綜合的なものだから。
きのうは、お話していたように島田へ手紙かきました。甘いものは、お母さん、中村やの支那まんじゅうをお思いなのでしょうと考えついたので、お送りします。あれは大気に入りですから。達ちゃんへは、先のとき第二回のとき『抗日支那の解剖』を送りました。この間私が云っていたのは尾崎秀実の『今日の支那批判』というような本です。インフレーション問題だけ何冊かシリーズにしたのが出かけています、興味があるが達ちゃんはどうでしょう、一度お見になりませんか。隆ちゃんに会いたいことも、島田へかきました。寿江子はノミの工合は不明ですが、子供たちを相手に暮している様です、あちらにいると夜九時に眠ります。東京へかえって来ると眠れなくなる由、寝ないのではなくて。それを、私でさえ寝ないと云って怒ると、この間は悄気て居りました。
ポチがね、さきほど死にました。目白の駅のプラットフォームから犬猫病院の札が出ているの、覚えていらっしゃるでしょうか。一昨日の午後そこへつれて行って入院させて、きのうも見にゆきましたが。よほどひどい毒物をたべたのだそうです。ワンワも可哀そうに。捨てられて、やっとうちで飼われて、毎朝私が出るとき走ってお伴して来ていたのに。何を一体たべたのでしょう。アンポンだもので命をおとしてしまった。ワンワの入院料は一日一円五十銭也。獣医さんというのは動物が好きでなるのでしょうね。
十二月の二十三日の朝、ポチがおなかを空かせて私の手をかむ。御飯がちっともなかったので、台所に跼んでいて御飯たいてたべさせてやったりした(盲腸になった朝)。犬も可愛いものです。
もう近々届くでしょうが、セッカーの目録の中にアレクセーイェフの「罠かけのデルス」という本の広告があります。それと同じのに「ケンヤ山を仰ぎつつ」というのもある。「罠かけデルス」は訳してもいい本と思い、それならほかの読みようはないでしょうし、注文します。いつか書いたゴールスワージの小説。ヨーロッパ大戦の時のことで、あれこれだと骨折った甲斐がなくなるから。それに小説でない方が、ものをかく人間には却ってよいし、語学の点から云っても。
この間、何かの雑誌の五行言のようなところに、矢内原氏が「現代は波瀾きわまりない時代であるからこそ、自分は一層永遠なるものに心を向けようと思う」という意味の言葉を云ったのを志壮なるものとしてあげていました。そのとき、永遠なるものとは何であろうという気が閃きました。感心している人は文句に魅せられたのでしょうが。歴史性は、絶えず変ってゆくそこに歴史性があるというような本質でつかまれた上で見ると、云った人の基督《キリスト》教精神や感心したものの心に求めているものの質が明らかに描き出され、面白い。動きの裡でその関係、その矛盾を生ける姿でとらえている点では貨幣についての著者が、作家に教えるものは実に甚大です。お手紙に早寝と書いて消してあります、笑えてしまった。
三月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月三十日 第二十七信
きょうは何と上気《のぼ》せる日でしょう。六十八度です。気温よりあつく感じます。机の上の、小さいけれども本もののマジョリカの壺にアネモネをさしておいたら、けさの蕾が見る見る開いて、満開に近くなってしまいました。
さて、うちのこと、てっちゃんのことづて、きいて下さいましたろう? あれから怪しき者も現れず、炭俵も安全ですから御安心下さい。ひささんは今夜かえります。こういう思いをするにつけて、本当にそちらの近くに堅いいくらか静かなアパートがあればよいと思います。最も実質的に考えて生活を合理化することは、真面目に計画されるべきことであると段々わかってきます。〔中略〕
いつか、去年のうちであったと思いますが、あなたが、生活のやり方について、無理して家を一つもつなんていうことを考えず間借でも何でもしてやって行くのが本当だから、と仰云ったことがあるのを覚えていらっしゃるでしょうか。そのとき、私は、それはそうだが、とわかってもどこか情けないような気がしました。そういう心持はなくなって来ています。新しい周囲が生じるのもよい、そういう興味もあります。生活がぐっと単純化することから違って来る気分もあり、そのことがどう自分に摂取されるだろうかという期待もあります。四月十日頃になると、移動がはじまるから家に留守番が来たらアパートしらべにとりかかります。
二十七日づけのお手紙、ありがとう。くりかえしよみ、例えば家のことなどについて自分の心持に生じている変化について考え、この数ヵ月のうちに(去年から)こき落された贅物のこと、或程度まで贅物がなくなって、そのレベルではじめてああ、と心から納得されるものの生じていることを深く感じます。
勝気さのこと、非常に私の生活にあっては、いろいろの混りものがあり得るわけです。ここにとりあげられているペニイのことね、あれなんか私はアラそうかしらの程度で、そうお? というように、半分冗談の種に云っていた自分の心持でした。それがあなたにこういう場合の例としてあげられることとして、印象を与えているということ。そういうことについても考えます。私の小さい我を粉砕し、又その現象的なあらわれであるそんな勝気さについても爆撃を加えて、よりひろく高い視野にひっぱり出そうとして下さること、ありがたいと思います。〔中略〕
私はこの前の前の手紙(二十二日)で、自分のよい勝気さと俗っぽいものとの混り合いについての反省にふれていたと思います。勝気というもののあぶなさは、現実に無内容であっても、その自覚感情としては在り得るという点です。自負と同じでね。
去年から今年にかけて、目に止るほどの程度でなくても、質の点で、実に私は多くの衣がえをしたし、かえるべき衣について知ることが出来たと思います。そして又去年から今年にかけて作家としての私がおかれている事情の中で、普通のひとならば、一応その事情への劬《いたわ》りで、云いたいことも云わないような正にその時期に当って、その時期こそ真の成長を目ざすべき時期であると、痛いこと、切ないこと、涙こぼさずに居られない点に触れられるということ。わたしたちの生活の妙味つきぬところであると思います。この頃、このことを屡※[#二の字点、1−2−22]考えます。成長ということは烈しいことであって、決して私は成長したいと思いますという、その気持で終るものではない。その心持ちはわかっている式でも、現実の成長はない。益※[#二の字点、1−2−22]今の時期の内容的充実についての関心がよびさまされます。
ジャーナリズムの限界は作家の接触のしかたではないということ、これもよくわかります。特に終りの部分は、意味ふかい言葉であると思います。
このごろ、やっと大部な著作の読書にとりかかって、感歎おくあたわず、です。涙ぐむほどの羨望です。純粋の羨望であって、腹の中では顫えるようです。小説においても、文芸評論においても、こういう態度に些か近づくことを得れば、本当に死んでもいい、そう思う。学問、最も人間的な学究というものの態度、鋭い分析と綜合との間で活き物である現象をとらえ、本質を明らかにしつつ再び活物としての在りようをその全関係と矛盾との間で描き出す力。そして、おどろきを新たにすることは、これらの精気溢るる筆が、対象をあくまで追究しつつ、決して、作家の頭にあるような読者を問題にしていず、念頭になく、筆端は常に内向的であることです。真の文学評論は、正にこういう性質のものでなければならないのですね。作品に即して、その世界の内外をあまねく眺め、よって来るところ赴く客観的なものなどが、煩いとなっていない学芸性。私の作品評などが、学問の基礎をもっていないということは、こういう点とてらし合わして見て、態度そのものが、子供のようなものだということがわかる。子供の怒りにしても尊重さるべきものがあります。しかしそれは大人になるからこそ価値があるのですから。学問的土台がない、ある、ということと深いものをもっている。古今の文芸評論を読破したという学問性だけは、学問性でない。それを読んだことなくても、学問性はあり得ます、正常な生活と文学とを語り、判読し得る。そういう学問性にまでめぐり合えないものが、卑俗な学問性に反撥して、現象主義になり、批評家はいらないと壮言する作家を生むし、一方、そう云われるのも事更わるくないというような批評家を生んでいる。
私にも、どうやら学問らしいものの面白さが、わかって来たことをおよろこび下さい。この著者のものはこの前の手紙にかいた本を入れて、四冊よんで、こんど五冊目にとりかかっているわけです。実に多くを教えます。自分のわかって行きかた、丁度鳶のようと思う。下に餌がある。鳶はぐるりぐるりと外から大きい輪を段々せばめて行って、最後にはその餌にさっと降りる。何だかボーとしている。すこしわかる。段々わかる。わかる、わかる、そしてテンポ(内容に近づく)が早まる。こういうテンポも人間の全体のリズムで面白いと思います。外を撫でて字をよむ。ところどころ一寸突入る。やがて全体やや沈んで、沈んで、こんどは内からよむよう
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