分そのもののひろく複雑豊富な内容。この文字はこれまでその本の解説にもついていてよんだのですが、新しくうけとるものがあります。私は自分で理解するためにどれだけ努力がされているでしょう。
 これについて又もう一つ面白いことがある。人間の内容のレベルということについて。一定以上の内容の到達をとげている人は、坐臥の間に、それ以下の人間がウンスウンスと机にかじりついている間にしか行わないことを行い得るということ。そういう練達のこと。休む時間に高等数学をしたときいて私はびっくりするけれども、休む時間に私が小説をよむといったら、本をよむのが休みかとおどろく人もあると思えば、人間の段々とは長いものですね。でも本当に、私は自分で理解するために[#「私は自分で理解するために」に傍点]どれだけのことをしているでしょう。文学においても。再び文学のプログラムのことが浮ぶ。これは他の誰彼にわかっていないように私にも分っていない。正しく今日までの過程も跡づけられていない有様です。かえって踏みかためられた小道には雑草といら草とが茂っているままです。
[#図5、花の絵]この二巻の選集[自注9]をあなたから頂いたのは一昨年のことでした。私たちの満五年の記念に。なかなかこまかい編輯です。ダイナミックな編輯ぶりです、科学の三つの源泉を、より深い勉強へと導く形において。
 十九日。きょうは朝大変寒くて水道が凍りました。乞食が来ておむすびを呉れというので梅干入れてやった。この頃こういうのは珍しい。金をくれと大抵いいます。
 日曜だから、けさは、こうやっていると安心するだろう、といっていらしたそういう工合のなかで暫くじっとして、雀の声をきいて居りました。月曜日にゆけるようにしておいて本当によかったこと。なかなか先見の明がおありだと思いました。四日なんかもたない、そう思いました。
 この前の日曜の私の手紙、ロダンの手のことを書いた手紙、もう着いている頃でしょう。土曜にそのお話はなかったけれども。おひささん、結婚をする相手の人がいやというのでもない、しかし勉強もやりたい気がするというので全く落付かず。きょうもその二つのことで出かけるとか出かけないとか、朝飯もたべずきょろついています。生活というものを型にはめて、おかみさんになればもうあり来りのおかみさん生活ばかりをするように考え、勉強するといえば御亭主なんかと思う。それがそもそも古臭いので、相手がちゃんとした人で、いずれ一緒になっていい人と思うならば、ぐずぐずせず一緒になって、相談して、一年ぐらい勉強やれるように生活を組み立ててゆくのが本当だということを私はいうのですが。一生一緒に暮すのだから一年待てない訳はないというのは変で、一生一緒に暮すなら、一年ぐらいの暮し方を相談してやれない法はない、という考えかたでなければ。けれどもおひささんをみて、自発的な愛情からでなしに結婚に入ろうとする若い女の人たちの心理がよく思いやられます。男の方には、様々の理由から結婚は内容的にリアルであって、或はリアルすぎる位ですが、ああいう若い、感情遊戯などですれていない娘にとって、結婚はきわめて抽象的な内容で、しかも形ではごくリアリスティックに迫って来るので、たじろぐところが生じるのですね。私としてもいい経験となります。おひささんはごくフランクに相談するから。きょう、勉強のことも打ち合わせかたがた相手の人に会おうとして、いるところへ電話かけたら(八時前)留守。勤め先へかけたら休み、だそうですとがっかりしています。何だか、普通大森辺の工場につとめている二十八九の男の生活としてピンとくるものが私にはあるが、おひささんはどう考えているかしらと思って居ります。私は黙っている。しっかりした人という定評があるのだそうですが、ボロを出さないという形でのしっかり工合では、とも思われます。普通の男の普通らしさとして一緒になれば、故障になるようなものでもないかもしれず。わきでみていると気になります。
[#図6、花の絵]さて、これから一勉強。きょうから過去の経済に関する学問への批評[自注10]にうつります。
 この本は厖大な一系列の仕事が多年にわたってどのような一貫性で遂行されてゆくかということについて、実に興味ふかくまじめなおどろきを感じさせます。そしてますます前の方にかいたこと、即ち自分自身に理解するために、努力しつくす力、紛糾の間から現実の真のありようを示そうとする努力というものが偉大な仕事の無私な源泉となっているか、云わばそれなしでは目先のパタパタではとてもやり遂げ得るものではないことが痛切に感じられます。文学作品の大きいものにしても全くおなじであり、ブランデスだって十九世紀の文芸思潮に関するあれだけの仕事は、その日暮しでしたのではなかったこと明白です。更にそのように無私で強力なバネを内部にもち得るということそのものが、どんなに強力な現実把握上で行われるかということも語っています。
 専門的に云えば、私は極めて皮相的な一読者でしかないことを認めざるを得ない。宝が宝としての価値の十分さでわからない。何故ならそれだけの準備がないから。しかし現実の問題としてははっきりわかります。そこが学者[#「学者」に傍点]でないありがたさ。面白いわね。
 このような突こみ、綜合性、様々に示唆的です。心にある文学的覚書(その中で文学のプログラムをわかってゆきたいと考えている)の核へ種々のヒントが吸いよせられてゆく。この前書いたものを継続して、而も文学の諸相をもっとも歴史の土台に深く掘りさげてかき、その過程でプログラムについても理解してゆきたい、そう思っているので。一年に一つずつそういうものを百枚か二百枚かいて、一より二へと深めひろげて行ったらずいぶん面白いものでしょう。子供っぽい正義派的フンガイなんかよりもね。
 法律より経済の方が面白いということ、わかる気がします。

[#図7、花の絵]さあここでめぐり会った。亀井氏を筆頭とするロマンチストたちが盛に引っぱりまわして、ごみだらけにしていた一句が。(芸術に関する)例のギリシア神話のことです。「困難はギリシア芸術及び史詩(ホーマー)が或る社会的発達形態と結びついていることを理解することにあるのではない。困難は、それらが今も尚われらに芸術的享楽を与え、且つ或点では規範として又及びがたい規範として通るのを何と解するかにある。」ここを引用し、「人類が最も麗しく展開されている人類の社会的少年時代が、二度と還らぬ段階として何故永遠の魅力を発揮してはならぬというのか?」「彼等の芸術が吾々の上に持つ魅力は、それを生い立たせている未発達な社会段階と矛盾するものではない。魅力はむしろ後者の結果であり、未熟な社会的諸条件――その下にあの芸術が成り立ち、その下にのみ成り立ち得たところの――が、二度と再び帰らぬことと、はなれがたく結ばれている」等を引用して、全く逆に使った。そして、「大人は二度と子供には成れぬ」という意味の深さ、更に「子供の純真は彼をよろこばせ、彼は更にその真実をより高き[#「より高き」に傍点]平面に復生産しようと努めないだろうか」と云われていることの文学における現実の意味はまるでかくしておいたこと。
「あらゆる神話は想像において、想像によって、自然力を征服し、支配し、かたちづくる。だからそれは自然力に対する現実の支配が生ずると共に消滅する」というのも何と面白いでしょうね。
    ――○――
 菜の花の色はこの紙に押してつかないかしら。駄目ね、花粉がつくだけで、しかもすぐとんでしまいました。長くなるからこれでおやめにいたしましょう。きょうは寒いこと。それなのに大潮の由。潮干狩、この寒さでやる人もあるかしら。虹ヶ浜に潮干狩があるのでしょうね、やっぱり。では又。

[#ここから2字下げ]
[自注8]第二巻への――マルクス『資本論』第二巻序文。
[自注9]この二巻の選集――ナウカ社版『マルクス・エンゲルス二巻選集』。
[自注10]過去の経済に関する学問への批評――マルクス「経済学批判」。
[#ここで字下げ終わり]

 三月二十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月二十一日  第二十五信
 けさ、十八日に書いて下すった手紙つきました(十六信)。何と膝をつき合わせ、私を総体でしっかり見て、云っていて下さるでしょう。僕はリアリストの筆調で書いているというところまで読んだら、胸が一杯になって、ひとりでに涙が出て来ました。どうしても泣けるところがある。ありがとう。ありがとう。私は、この頃自分たちの生活というものに深く腰をおろしいろいろ考え、しんとした心持で暮しているから、これらのことはみんな身にこたえてわかることが出来ます。私の真の成長の可能、私たちの生活からこそ花咲き得る筈の、まともなものを培おうとするあなたの真情がうって来、又、これまでの自分の何年間かの、一生懸命だと思っていた気持の様々の遺憾なところがいくらかずつなり見えて来ている折からなので、本当に乾いた眼で空々しく読むなど出来ない。涙は、私のむけたような心の上に落ちます。
 ユリには、この人生に、揉まれるなりに揉まれつつそこからぬけて行くようなところより、頭を下げ、体をかため、それに直線的にぶつかって、それをやぶって前へ行こうとするようなところがあり、而も、ときにそれが体当りでなくて、体当りの気[#「体当りの気」に傍点]でだけいるときがあるのだと思います。『乳房』の序文の言葉は、一つの責任の感じもあって、そのようなものとしてまとめてゆきたい(「雑沓」について、ね)という希望をこめて書いたのでしたが。しかし、文学において、責任のある感じというその感じかたのポイントがいろいろなわけですから、やはりそこに甘えた、非現実的な自己評価がなかったとは、今の私の心持から、云えません。十年間に、作家として殆ど文学史的な意味での十分な仕事がないということは、身を刻まれる思いがします。今これを知ることは、だが、いいことです。何故なら、十年間のいろいろな経験が、身につかぬものはふるい落され、身にしみついたものはのこって、今は、その発酵の時期ですから。少くとも私の作家としての成長の過程から見て。そして、生活の具体的な諸事情から見ても。
 外に向っての勝気ということについて、前便かで書いて下すっていましたが、これも実に微妙であって、私は、おかみさん的の勝気はない。けれども、或方向、正しいと思われる文学の存在権とでもいうようなものをかばう心持においては勝気でしょうと思う。その場合、知らず知らず自分の正義の肯定と絡み、その絡みかたにおいて一方の低さから主観的になり、その主観に回帰性が加って、じりじりと心にくい込むものとは反対の形をとって現れて来る。そういういきさつ。その裡には、やはり、私の昔の生活の雰囲気から来ているもの、会ではひとが、中央に私を坐らせる、そういうようなもの、種々が影響しているわけです。
 昨今感じられているこの沈潜性が、あぶなげのない実力として身に具るのは、これからの勉強次第ということは実にわかります。日々の勉強、自分への切りこみ、自分を益※[#二の字点、1−2−22]広く高いもののうちに同化さすこと、その日々が、実力となってゆくのでしょう。だから今私は、毎日そちらへゆくこと、勉強すること、それしか考えていません。私たちということは、私たちの生活の初めから何千度か云われているが、その実質がやや真に迫ってつかまれて来たのは、これも近頃という感じがして、私はここにも新しくおどろきをもって感じ直しているものがあります。ずっと、自分がしゃんと生活し、仕事してゆくこと、それが私たちの生活の証であると考え、そのことは元より誤っていないが、現実の場合では、私[#「私」に傍点]と二重やきつけとなっていたし、五のものを七に力んでいたところもある。これは責任感のことについてふれた、ああいう心理と共通なものをも含んでいると思われます。
 こういうような心持、これまでこういう形では見ていませんでしたね
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