ティの増大について、人間らしい積極性というものが、決して低俗な几帳面さと同じでないということについて理解させる。(益※[#二の字点、1−2−22]よく、という意味)。〔中略〕
何と私たちは尻重でしょうね(この複数は、あなたと私というより、私程度の誰彼のこと)人間よりも動物らしいでしょう。生活にあるはっきりとした美しさというようなものの味い。非常に高い程度の簡明さ。それは決して単純ではない。亜流的文学は、この頂点を目ざさず、紛糾の現象的追っかけに首をつっこんだきりです。はっきりとした美しさの現れるためには欠くべからざる集注力、統一力、ひっぱる力。えぐさもまたその一つとして含まれていると思われます。そういう情熱の湧き得る人生の源泉はどこにあるかということ。ここの究明に至ると、そこにある新鮮さは不死鳥的なものがあります。
ね、私の宿題の表も些か形式からその本質へすすみつつありますね。
○達ちゃんから手紙が来ました。私の書いたのへの返事。丈夫にしているそうです。慰問袋着のも翌日。北京官話と苦力《クリー》の用語とはちがうがあの本有益の由です。
○ロンドンの本やセッカア・アンド・ワーブルグ Secker & Warburg からカタログが来ました。又写してからお目にかけましょう。欲しいのがあります。
○英和は岩波のを昨日買ってお送りしました。三省堂のコンサイズよりもよいと思います。ポケット型です。
そちらにゆかない日は、ついこうして話したくなります。煙草をのむ人なら一寸一服というときに。二人いれば、私がきっとお茶でもいれてもって行きそうな時、そのころあいに。そしてこういう話のとき、字まで雑談的なの、おかしいこと。こういう字は、自分のためのノートか、こういう手紙にしかない字。クシャクシャとして、絶えるところがないようで。こんな細かい字は本当にほかへは書きませんものね。
十七日。
(さて、この頃十番以内[自注6]になるためには相当の馴れを要します。)
十四日づけのお手紙をありがとう。十六日着。小説のことはいろいろと経験になって大変有益でした[自注7]。一面にはあんなに書きたくて、心こめて書いたものだったから、反対の効果であったりしなくてよかったというようなところもあります。主題の性質についての話、それから以前からジャーナリズムとの角度について云っていらしたこと、それらが極めて具体的に納得されました。そのことでは多くのものを得ました。習慣でジャーナリズムを一義のように考えるといっていらしたことね、その点も複雑な現実性でわかり、これまでその限界というものは十分に見つつ、書いてゆく気持ではやっぱり一番自分にのぞましいものにとりついているところ、その辺デリケートで、あなたがいっていらした真意もどちらかというと一面的に理解していたようなところがあります。〔中略〕一つ二つならず会得したことがあって(書いて生活してゆかねばならぬものとして)生活的にも興味があります。文学の問題としてみると、際物でない作品に対する要求は自然の勢としてつよいのであるが、その要求の表現が、非現実な夢幻的な方向に向ったりしがちであることも、現実の語りかたの条件の反映として強く現れています。今に鏡花でも再登場するかもしれず。露伴までかえっているのだから。
勉強は十二日以来相当量進捗して居ります。今経済に関する初歩。三つの不可分の要素はわかります。そして、今日のトピックに沈潜するためにも、文学の展望の上にも尽きぬ源泉として活気の基になることもわかります。(十五日の雑談でも語っていますが)。勉強などというものは、ある程度深入りすると一層味が出てもう自分から離さなくなる、そこが面白い。そしてそこまでゆくのが一努力というところも。〔中略〕こっちの側をよくもりたてて、五円よりはすこし、よけい収入もあるように計ってやってゆきましょう。増上慢の語。これは古い言葉ね。おばあさんが、ほんとにまア増上慢だよとか何とか云っていたのを思い出します。女の科学や芸術の分野における悲劇ということは実によくわかります。低さから生じる。ちやほやしてスポイルするのも低さなら、頭を出すのもぐるりの低さから、そして自身の裡に十分その低さと同質のものがあることを自覚しないところ、「えらい」ように自分を思うところ、そこに悲劇の胚種があります。〔中略〕
男の生活の低さ、その一段下の低さ。そういうものは本当に一朝一夕に解決されないもので、実に歴史の根気づよさがいると思われます。本年は私はどこか心の底に絶えぬよろこびがあります。それは自分がすこしずつ、すこしずつ点滴的だが変って来つつあることを感じていますから。そして、じっと考えればこれは私たちの生涯にとって一つの大切な転機をなしつつあるのだと思います。去年から今年にかけてね。このことは考えるたびに一種のおどろきの感情を伴います。自分がむけてくるという感覚。これは何という感じでしょう。いくつかの山や谷を通ったことです。或期間は、全くあなたが、自分の足をただ受け身にだけ動している私を押して坂をおのぼりにもなったのだから、本当にすまなかったし、今は表現以上のありがたさです。そして忘られないのは、栄さんへの手紙で書いていらしたこと。点の辛さは女の成長に限界をおいていないからだという一句。あれが私を電撃したときの心持。窒息的な女房的なものの中に自分から入っていることを知ったびっくり工合。(自分に直接宛てて書かれているものから、それをよろこびとしてつかみ出さずにることのおどろき、ね)あすこいらが悪い状態のクライマックスをなします。私たちの生活の中に決して二度とくりかえすまいと思う圧感でした。今になってあの時分のこと考えると、クリシスというもの(ひろい生活的な意味で)の性質がわかります。ああいう風に風化作用的にも浸み込む、或は出る、のね。日参のおかげで、その期間があれだけで転換の機会が来たと思います。私の盲腸炎はそんなことからいっても何だか実に毒袋がふっきれた感じね。毒々しかったと思う。
伝記については、云われているその点にこそ私の文学的人生的興味の焦点があるのです。日本の文学の歴史の推移との連帯で。それではじめて日本の作家が世界的な作家の評伝をかく意味が生じるわけですから、私たちの生活というものがぎゅっとよくまとまって、能率もましてくればうれしいと思います。もとのリリシズムの一層たかめられた実質での私たちの生活というもの。そのことを考えます。
林町では国男、一ヵ月ほど北支辺へ旅行にゆく由です。仕事をあちらにひろげないではやり切れぬ由です。何しろ水道新設ができなくては建築をやるものはないわけですから。咲は、いろいろ微妙な妻としての立場から心配して居ります。行ったきりずるずるになられては。変なおみやげをもってきては、等。事務所がつぶれたって咲としては御亭主を確保したいのが当然ですから、国によくその点話しました。わかっているといっている。で、私は思わず自分の分っているのがどんなに分っていなかったかを考えて笑い出したし、安心もなりません。国の顔をみると、もちろん仕事についての関心もある。しかしそうでない興味もうごいた顔です。おかみさんは直覚が鋭いから。うんと金をつかってどういうものをみてくるか。咲は六ヵ月のぽんぽで、国ちゃんがとけ[#「とけ」に傍点]たら迎えに行くと云ったってもうその時は動けないし、といって居ります。まあ大丈夫でしょうが、今度は。行ってかえる間は。あっちに出張所でもできるようになると深刻な問題を生じます。そうなったら大いに考えなければなりません。こんな形に世相が出るのですね。
達ちゃんの本のこと。字引は高野辰之編(と称する)よいのでありました。
この頃日向は風がないと暖かね。きのうは荒々しい天候でゴッホの春の嵐の絵が思い出されました。黒い密雲と射しとおす日光の条。往来で、オート三輪のフロントガラスがキラリと閃いたりして。やがて青葉。そういえば、土管おきばのよこの枳殻《からたち》の木はどうしたかしら。今年も白い花を咲かせるかしら。サンドウィッチは五十銭だそうです。ブッテルブロードさしあげます。ではお大切に。
[#ここから2字下げ]
[自注4]ウエストンさんの説の誤りを正してやっている文章――マルクスの著作。
[自注5]この筆者の親友――エンゲルス。
[自注6]十番以内――面会順の番号。
[自注7]小説のことはいろいろと経験になって大変有益でした――「その年」は文芸春秋のために書いたが、内務省検閲課の内閲で赤線ばかりひかれて、発表されなかった。反戦的傾向の故をもって。
[#ここで字下げ終わり]
三月十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
三月十八日 第二十四信
手紙がかたまらずに着くと思うとうれしいこと。
「発見」ということについてこの序文(第二巻への[自注8])の中になかなか面白いことが云われて居ります。酸素のことですが。十八世紀には酸素がまだ知られていないので、物の燃えるのは、燃素という仮定的物体が燃焼体から分離されるからと考えられていたのですってね。十八世紀末にプリーストレーという科学者が燃素ともはなれて、一つの空気より純粋の気体を発見し、又誰かが発見したが、二人ながら従来の燃素的観念にとらわれていて「彼等が何を説明したのかということさえ気づかずに、単にそれを説明[#「説明」に傍点]しただけであった」ところが、パリの一科学者が燃素が分離したりするのではなくて、新しいこの光素(酸素)が燃焼体と化合するものであることを発見し、真の発見者[#「発見者」に傍点]となった。と。そして「燃焼的形態において逆立ちしていた全科学をばここにはじめて直立せしめた」と。経済関係の基本的な点にふれて云われるが、どうもこの燃素的観念というものは、ひとごとならず笑えるところあり。文学における現実の発見とは何であるか。作家の内的構成がどんなに主観的範囲に限られて在ったかということを思います。自分の生活でだけ解決していることを、社会的に解決したように思ったり、現実の発見ということは文学を直立せしめるものであり、其故なまくらな足では立たせられぬというところでしょう。面白い。十四日の手紙で、文学の対象は(芸術家の対象と書かれています)無限に広いと云っていらっしゃる言葉。翫味百遍。この短い言葉のなかに、どれだけの鼓舞がこもっているでしょう。それから、私の二十三信にもかきましたが、ジャーナリズムとの角度のこと。私はひとりクスクス笑っているのです。だって、これも発見の一つでね。あなたという方の発見の一つの面をなすので。私は非常に単純ね。甘やかしていえば一本気とも云えるかもしれないが、そういうお鼻薬は廃止にしたから、やっぱりこういうところに、苦労知らず(ジャーナリズムとの交渉で)のところがあるのだと思う次第です。なかなか興味がある、発見というものは。私は幸だと思います、こういう発見をも世渡りの術的には発見しないでゆくから、(或は、おかげさまで)。
こういう点について考えると回想がずーっと元へまで戻って一つの場合が浮びました。それは私たちが一緒に生活するようになったとき『婦人公論』で何かその感想をかけと云ったでしょう、そのとき私が三四枚真正面から書いて、戻してよこしたことがあったの覚えていらっしゃるかしら。あのことを思い出します。そしてああいう風にしか書かなかったことを。――今ならきっと、読む女の人の生活を考え、客観的に諸関係を考え、書けたでしょうね。自分より、ひとのためにね。そんなこともよく考えてみると面白い。〔中略〕
[#図4、花の絵]ねえ、ここにこういうことがあります。「我々は自分で理解するという主たる目的の」ために二冊の厚い八折判の哲学の原稿を書いたということ。――自分で理解するために[#「自分で理解するために」に傍点]それだけの労をおしまなかった人たち。その労作がこのようにも人類生活に役立つということ。こういう展開のうちに花開いている個性と歴史。自
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