しかも文筆の上で妙なポーズをかためたのが却って画家として他に語る方法を可能ならしめたこととなり、実に熱意もなければ愛もない画を出している。鶴三はレビューを油で描くのはよいとして、その見かた描きかた、「こんなのもやりますと云っているようだね」という評が適切です。これを見ても、私はそう云っていてはきりがなくなる、と云われた貴方の言葉を思い出し可怖《おそ》るべしおそるべしと毛穴から油あせを感じた。先生先生とぺこぺこされ、金になり、描くほどに金になってゆくと、こういう袋小路につまるのですね。往年の春陽会の気品というようなものは熱心と探究心とを失って、まるでお話になりません。これから見ると、国画展の方が生気があり、ましで、一枚一枚を見ようという気をおこさせた。
 いつか、麦遷と溪仙《ケイセン》との遺作展があって偶然見たことを書いたでしょうか……土田麦遷という男が展覧会の大きな大原女などで試みて居たものが、そこにあった花鳥小品にはちっとも徹底していないで、全く平凡な色紙絵のようなのにおどろいたこと、書いたかしら。溪仙の方は碧紺などに独特の感覚があり、空想力もゆたかでたのしんでいるところ遙かに面白か
前へ 次へ
全473ページ中62ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング