き戸塚の花やで買って来た見事なアネモネがさしてあって、それは一昨日あたり今にも紫の粉を撒《ま》いて散りそうに開いていたのが、きょうあたりは花弁をすぼめておつぼの形です。ずっとお体は大丈夫でしょうか。熱はどうなったでしょう。すこしだるいようでしょう? 今は誰でもそういう疲労感があります。
 私はずっと工合よく保っていて、しかも相当うれしいことには、きのう歯の医者へ行ってしらべて貰ったら比較的良質の歯だそうです。いろいろ大した手当は不用で、左の下の奥が親知らずを入れて二本だめになっている、それを多分抜くでしょう。あと一つ右の上に過敏になっている箇所があって、それを手入れするぎり。お茶の水の文部省附属の方へ行きました。父もよく通っていた。そこはどんな人でも一度ずつ手当の費用を払い、すべての専門部があって安心です。世にも歯の手入れは辛いから、フーフー思っていて、きのうは大決心で行って、却って大安心しました。どうか御安心下さい。私がこんなに丸っこくて、頭脳的にやや酷使の気味で、それで糖尿的でもないし、齦《はぐき》も健康だというのは全くうれしい。益※[#二の字点、1−2−22]夜ねる前に歯をみがくことの効果を信じる次第です。
 この頃は一日に八時間位の労働です。いろいろ視力をつからさないように注意をして。(春は目がつかれる)面白いことに出会いました。それはイギリスの中世の伝説の一つですが、或時、アーサ王が悪者の魔法をつかう騎士につかまってしまった。その悪者はアーサに謎を出した。すべての女が最も望むものは何か。その本当の返答が出来なければ国土を皆とってしまうという。アーサは苦労したがこれぞと思う答がないとき、或森の中で、醜さきわまりない女に出逢うと、それが答えを教えて呉れた。曰ク、すべての女の最も望むことは自分の意志を持つということですよ。
 その答えでアーサは悪い騎士に勝ち、そのみっともない女は、その礼に美しい騎士を良人としてアーサから獲る。するとそれでその女にかけられていた魔法の半分がとけて、女は可愛らしい若い婦人の姿のままで一日の半分は居られる。良人である騎士に、夜美しい方がよいか、昼間うつくしい方がよいか、ときくと、騎士は初め、夜の間美しい方がいいという。でも、女としては昼間きれいで皆の間にいられる方がたのしいのだというと、男はその女の望みを叶えてやって、夜こわい方でもよいということにすると、それが最後の鍵で、女はすっかり魔法から解かれ、美しいまま生涯を暮せた、という話。
 私は大変面白く思いました。七世紀から十一世紀位までの社会でつくられた物語の中で、人間力以上の人物であるアーサが解けない謎が、女の真の心持の要求しているものであるという点、しかもおそろしい魔力が、女に対する男の真の親切な思いやりでのみ、終に解けるとされているところ、大変に面白い。その頃の婦人の生活一般、男の理想と現実の両面が象徴されていて、いかにも面白く思いました。こういう物語は、今の世の中の少年少女にも教訓になるようなものですね。国男などには大いに有益です、ひとつきかしてやろうかしら。
 この間うち隆二さんしきりによき結婚生活、特に芸術家の結婚生活について書いてよこします。貧乏だもので、おでことおでこをつき合わしているような夫婦が多すぎると。そして、真の夫婦というものは互により高い一人を求め合う面で結ばれているものだし、又一人で歩いてゆかねばならぬ、まじり合ってしまってはいけないとしきりに云って居る。何で感じたのでしょう。清少納言や何かひとりで暮していたことを書いて、ローマン的心持らしい。いろいろと微笑されます。勿論いい夫婦というに足りる夫婦は大変に尠い。それだけ互を人間として尊重し評価し愛して同体となっているのは尠いけれども、このひとにはまだ多くの、而も最も人間感情の微妙端巌なところが実感されていない。同時に、私はこの頃、深く深く、人間が一生のうちに、そういうところに近づき触れてゆける結び合いにめぐり合えるということの稀有さを、ひろい背景と考え合わせて感じ極まっているので、何だか無理もないようにも思えます。
 それにしても生活というものは何とリズミカルで、変化するに応じてそれぞれの味い、豊富なものでしょう。あなたはいつか栄さんの良人に、いやな勤めの味を自分も知っていると云っていらっしゃいましたね。この頃私には其がわかります。いろいろ事情も条件もちがうけれども、感情においては判ります。私としては新しい境遇によって得た新しい収穫です。なかなかためになります。益※[#二の字点、1−2−22]根が深くなる。この人生に於て愛するに足るあらゆるものを愛す心がいよいよ鋭く水々しくされる。この三四年の間に、私が経て来た生活とその収穫の経緯は一本の道の上ではあるが、芸術家の生涯
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