た、ではお目にかかって、又いろいろ。よく風邪をおひきになりませんでしたね

 三月一日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月一日  第十信。
 きのうも今日も夕方から風が出たが、いかにも春めいた日でした。うちのひさはすっかり上気《のぼ》せて、それも何だか春めいて見えました。
 きのうは久しぶりでお会いして、あなたの着物の召しようがくつろいでいたのが目についた。三月に入ると火の気のないところの大気は本当にちがってきますね。やがて夕暮が美しい薄明になって来る、そしてエハガキの色どりが奇妙に鮮やかに活々《いきいき》として来る。今年は季節のうつりかわりが沁々感じられて、ああ春になったとよく思います。
 きのうは、うちの話が中途でポツンときれてしまいましたから、先ずそれをつづけましょう。前便で大抵書いたと思いますが、家はなかなか簡単にかわれません。アパートなども一応考えるが、謂わば往来を区切ったようなものでね、ドアをあける。それっきりではこまります。雑多な人間のいることも種々不便です。アパートは考えられず、林町の離れは前の手紙に書いたようなわけ。夏まではともかくここに居ます。交通のことやいろいろの点を考えるとなかなか動けません。それに、この頃の生活は沈潜して勉強出来るし又するべきときだから、毎日を変に落付きのわるいものにしてしまうことは本質的に非能率ですから。それに私はやっぱりこの辺を大変愛しているのだと思います、ちっともうつりたくない。ですから家のことは当分御心配なさらないで下さい。依然として、この小さいながらもわれらの窓に灯火は輝きつづけてゆくから。
 これから当分南風が吹く日が多いが、皮膚のゆるみで風邪をおひきにならないで下さい。寿江子はこの三四日風邪で臥《ふせ》って居ます。どうも大分見舞に来て欲しいらしいが私はすこしつめてやっていることがあるので、机にとりついてつい出かけない。三月三日のお雛様には達《たあ》ちゃんが女主人でうちの太郎まで御招待です。本間さんの一家がこの節は戸塚ですから子供の日で私は大いにたのしみです。この間は健造に将棋を一寸おそわりました。コマの名と動きとだけ。達坊は半年ばかり高田せい子さんのところで舞踊をやっていて、子供は語学と同じに、物まねから、いつの間にか体をリズミカルに動かすことを覚えていていかにも七歳の娘の子で面白い。健造はすっかり少年です。私もすこしはなぐさみというものがあってもいいから、健造先生に将棋でもならい、あなたから御指南いただきましょうか。偶然だの、単なる筋肉的なスピードだので競争するのはちっとも好きでないが、こういうものは面白そうに思う。十六七歳のころ私は五目をやってつよかった。何かの可能性を、これは語るものでしょうか。(笑声を書くということは小説の中でむずかしいと同様に、手紙の中でもむずかしい)
 私は誕生日のおくりものに頂いた小旅行のおかげで、本当にこのごろは工合よくなり、無駄のない日を暮して居ります。だが、私はどうも一日に二つの仕事をふりわけにやってゆくことは出来ないたちだから、一二ヵ月何か生活のためにしなければならないことをやって、あと二三ヵ月は別のものにうちこむという風にやって行ったら、工合よく行きそうです。そういう風にゆけたら、そとからこまごまと切られないで、十分気を入れてやれて、随分うれしい。
 きょうの手紙はどっちかというとゆったりした気持のものだからついでに書きますが、あなたは眼というものの微妙さをおどろき直すような感動でお感じになったことがあるでしょうか。私はきのう深く其を感じて来ました。こんな小さい瞳の中にあなた全体が入るのですもの。瞳から入って心にそっくり活きている。何というおどろくべき仕組みでしょう。眼ほど謂わば宇宙的な部分は人間の体のどの部分にもないと思う。眼のむさぼり、眼の食慾、眼のよろこび 眼から眼へ流れるものは無辺際《むへんさい》的なニュアンスと複雑さと簡明さをもっている。私はよくよくそばによって、あなたの眼の裡《うち》にうつっている自分を見たい。私がそうやってよくよく見ているとき、その私の眼の中に近く近くあなたがすっかりうつっている。何というおもしろさでしょう。見ることのよろこびが余り大きいと、びっくりして私は見得る機能に対してまで新しい珍しさを感じます。
 すこし又熱ぽいかもしれないが時候が今ですから気になさらず、どうか呉々お大事に。

 三月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月八日  第十一信
 この間三四日何と暖たかだったでしょう。東中野のところに在る三越の青年寮の大きい桜は、八重だのにもう七分通り咲いてしまいましたって。それが又きのうきょうの陽気で、さぞ途方にくれていることでしょう。机の上に、三日のおひな様のと
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