にとっては重大で、現在の事情も或意味ではこれまでの様々な経験が与えたと違った一つの意味ふかいものを私に与えるらしい様子です。
 生活の全面的な関係だけが可能にする発育のモメントというものがある。正直に生きてそれにぶつかり得ることが既に一つの幸福であり、そこから何かましなものを学べることは、何という滋味でしょう。私は一箇の人間として、所謂《いわゆる》幸福と才能とのキラキラしたところを突破し得る何かが与えられていることを、心から謙遜になって有難いと思って居ります。俗人的でない生活力がみがき出されてゆくということは、真面目にありがたいことです。では又。これは地味な手紙だけれども、丁度この頃の土のように底に暖みを感じているよろこびの手紙なのです。翔《と》ぶような歓び、又こうやって地べたを眺めるような欣《よろこ》び。いろいろね。丁重な挨拶をもって

 三月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月十一日夜  第十二信
 三月三日の、丁度私たちが戸塚のうちで盛《さかん》にお雛様を眺めていた時分書いて下すったお手紙、珍しく早くつきました。その返事を書こうとして机に向ったらこの近所にまあ珍しい三味線の音がして雨が降り出した。私は小さな薬局がひっくりかえったような臭いの口をして居ります。奥歯を二本抜いて来たので。どれの根にも膿の嚢《ふくろ》がついて居ました。レントゲンにうつっていた。よい工合にあとも痛まず出血もしません。ただかえり路はすこし体がフーとなったような塩梅であったが。
 火曜日から三日ばかり(きのう迄)風邪になって床につきましたが、雪を見たら却ってさっぱりしてしまった。何にしろ不順ですね。ずっと同じ御工合でしょうか。
 さて、私が小説について苦々しさがほとばしるといきなり書いて、本当にあれは唐突でした。何にしろ生き方のからくりの悪臭で皆相当当っているものだから。何を書くかより以前に何者であるかということ、について貴方もいつか被云《おっしゃ》っていらした。あの点です、私がああいう爆発を示したのは。相対的にましなものということは認めざるを得ない、それを十分自分から計量して、今時それ以上何がいるというのだという風に居直って、一般感覚で感じないところを、少数の人間が何と感じて居ようと平然と無視した振舞いかたで現実生活をあやつって居られると、芸術の本質から、一応ましみたいであることの悪質を痛感するわけなのです。抽象的な云いかたしか出来ないけれども。一からげは大丈夫です。私もこの頃は大分目も指もこまかく働くようになっていて、これは松茸《まつたけ》か松だけそっくりだがそうではないとか、大分わかります。
 あの小説とは別のこととして、勉強ぶりについていろいろ楽しい期待をもって下さること、よくわかりますし、私も実にその点では云いようのない位、自分にもたのしみです。そのことでは私は自分の最大の貪慾と勤勉とを発露させます。そして長年の友達たちというものもありがたい、誰も皆そういうたのしみは持っていて様々の形で期待して呉れます。私にとって一番こわいのは自分が、わるい作家になるということです。窮局[#「局」に「ママ」の注記]に於て、それよりこわいということは存在しない、と思う。私は作家としての生涯の豊饒なるべき時期にめぐりあった新しい条件を、真の豊饒さのために底の底まで活かすつもりです。充実した時間を送って居ります。きのうからきょう、きょうから明日と、長い見とおしと計画とによって充実した力のむらのない日を送り迎えることはなかなかつくし難い味です。
 健ちゃんがそろそろ語学をはじめるらしいが本当にいいことです。語学の実力は小さいときからやったものにはかなわない。いざとなると私の英語がいきかえって来るのを見ても。達ちゃんの舞踊の如きも同じで、歯の手入れ、音楽、語学は子供からです。
 鶴さん又盲腸で臥ている由。清三郎さん大元気です。おひさ君本当にやがて一年東京に暮すことになります。早いものね。さち子さんがお手紙をもって来て見せてくれました。桜草がきれいらしいこと。十五日にはてっちゃん御夫妻が初見参です。あなたのところへ二人で行ったかえりによってくれたのだそうですが、その日は私が留守でしたから。お手紙がついたとの話でした。地図と本つきましたか? 近々『六法』その他お送りします。又月曜日位にお目にかかりにゆきますが呉々お大切に。どてらとネマキの小包はつきました。あれも歯医者のように匂いますね。では又。
 歯をぬいたせいかしら、いやにふわりとした腕の工合で妙です。

 三月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月十七日  第十三信
 十四日には元気そうな御様子でいい心持でした。庭へ出られるようにおなりになったのは何とうれしいでしょう。往来
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