るところ。文学が豊饒になるためには実に広い大きい幾多のものが必要であると痛感します。長い小説は決して安易にやっているのではないのです。「伸子」などでも本にしたときすっかり通して手を入れ、完成させた、そのような程度のことを云っているのです。すっかり書き直すなどということは実際には不可能ですもの。
 こっちの暮しはきょうであしかけ四日目。九日にはね、午後〇時何分かに網代について、すぐそこからバスで伊東下田行が出かかっているのだが熱川の宿はどこがよいのか知らない。赤帽にきいたら福島屋が一番いい、電話をかけといて上げましょう、電話料二十銭。二十銭わたしてバスにのったら、伊東まで相当ある。伊東は乾いたようなあまりに風趣のない町に見えた。伊東から又下田行で熱川まで一時間余。すっかりで二時間余です。山の間の坂道の左手に熱川温泉入口とアーチが出来ているところを、ハイヤーでぽんぽんはずみ乍ら七八丁下った狭苦しいところに福島屋あり、途中番頭曰ク生憎満員でお部屋がありませんがともかくお迎えして云々。上って見ると夜具部屋のようなところしかない。そこで宿に電話で交渉させて、坂の途中にあったつちや別館の九号という室におさまったわけです。海からはすこしはなれているが、大島が目の前に見え、左右は山の岬が出ていて、畑の真中の木の櫓から下の宿の温泉が噴き出して夜も昼も白い煙を濠々《ごうごう》立てている。その煙とはるか海の彼方の三原山の噴火の煙とが同じ一直線の上に在るように、ここからは眺められます。宿の入口の垣のところに白梅紅梅が咲いていて、もう末です。伊豆椿が咲いている。しかし散歩にはごろた石が多く坂が急で不向。月は夜うしろの山からのぼります。温泉の白い湯気と海とが輝かされる。月の姿は見えないの。大島の左手の端に低いが目立つ燈台があって明滅する。
 私は海の上に島を眺めていたことがないから一日のうち、時間と雲の工合によって遠くの大島が模糊と水色に横わって居たり、急に夕日で紫色に浮立って見ているうちに、右手のところに断崖があらわれ、やがて島の埠頭らしいところが一点水際でキラキラ光り出したりする光景のうつりかわりが面白い。夕刻は、今そうやって細かい家並まで目に入っていた島が、自動車を一二台見送って再びそっちを見ると、もうすっかり霞《かす》んでしまっていたりして変化きわまりない。空気がよい。塩類の湯も体に合います。一日に一遍ゆっくり入ってバラ色になって眠る。一日に何度か、ああこの空気を、とか、ああこの日光を、とか思う。おなかの右側全部(肝臓や盲腸)ぎごちなくつれたりひっぱられたりするのがましになりました。私たちは十五日ごろにかえるでしょう。一九三一年の二月ごろ湯河原に一ヵ月ばかりいたことがある。肝臓のために。大宅さんだの隆二さんだのが遊びに来て一緒に湯河原の小山にのぼったことがある。こっちの方が海気があるから一層心持がようございます。寿江子をつれて来てよかった。寿江子の体にもよいらしいけれども、それより私がぼんやりするためには独りよりずっとよかった。独りだと私の頭が休まない。すこし疲れが直ればすぐ働き出して、休んでいられない気になってしまうから。
 きのうはバスで二時間ばかりかかって下田へ行って見ました。実のお吉で食っている。吉田松陰先生の住んでいた家というのは蓮台寺温泉の中の狭い小路の横です。普通の田舎家の土間のある家でごく小さい。子弟をあつめて講義したという、ベン天島というのも小さい。下田の町からはずれた柿崎というところ。ハリスのいた寺、お吉がカゴで通った玉泉寺という寺へあがる海岸です。黒船が二つの島の間に碇泊して天地を驚倒させたという二つの島のへだたりを見ると、当時の黒船の小ささがわかって実に面白かった。バスの女車掌さんが皆説明して呉れる。伊豆が金山で有名で幕府(徳川)の経済をまかなっていたとか、運上山というのが見えたりして。伊豆はなかなか幕末の舞台でしたから。曾我兄弟の父河津氏の所領がその名をもっていたりする。
 寿江子は今散歩に出かけました。私はきのうごろた石坂でせっかく買った新しい下駄をわってしまって困った。きのうは相当にゆすぶられましたからきょうは一日しずかにしているつもりです。今大島の真上に一つの雲のかたまりが止っていて、三原山の煙が一寸ねじくれ乍ら真直のぼって、その雲との間に柱のように見えます。私がこうしていてもあなたがかぜも引いていらっしゃらないと思うと本当に気が楽です。

 二月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月十七日  第八信
 これはもう東京。ひどい風が雨を吹きつけていて、ガラスのところから眺めると、目白の表通りにある三本の大きい欅《けやき》の木が揺れる房のように見えている。ガタガタ家じゅうが鳴りわたっている。何ていろ
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