いろな音がしているのでしょう、風の唸りに混って。
 私たちは十五日の午後に熱川を立って夕方東京にかえりました。十三日の私の誕生日はよい天気で、寿江子はスケッチに出かけ、私は宿でゆっくり本をよみ。次の日は矢張りひどい雨ふりで、いかにも暖い海岸での春のはじまりの雨というたっぷりした降りかたでした。寿江子は私のわきでスケッチをして居り、鼻歌まじりで一心に集注した可愛い顔つきで雨にぬれて色あざやかな外の風景を描いて居り、私はドーデエの『月曜物語』を、特別な興味と関心とで読んで居り、午後じゅう、ほんの一寸しか互に喋らず、しかも静かに充実した精神の活動が室に満ちて居り、本当に本当にいい心持でした。十三日とこの日とで私はすっかり疲れがぬけたようになり、もみくしゃな顔がしっとりとしたようになりました。其故、きょうこんな荒々しい天候でも私は休まった神経のおだやかさ、きめ[#「きめ」に傍点]の濃やかさというようなものを感じ、気持よい活気を感じて居ります。
 本当にありがとう。私は誕生日へのあなたからのおくりものとして、この休みを休んで来たから、その甲斐があってうれしいと思います。
 お体の方はずっと順調ですか。きょう、夏ごろ南江堂の書棚を苦しい切迫した気持でさがしてお送りした本どもがかえって来たのを見て、私は思わず、ああ、これは大事にとっとかなけりゃ、と云いました。全くそうでしょう、ねえ。それから一つ私は悟りをひらいて来たことをお話ししましょう。この前熱川で書いた手紙にも其について書いたが、私はこれまでの何年かの間、自分が何かをああ美味しい! とたべた刹那《せつな》、又ああいい空気だと感じた瞬間、すぐその下から、忽ちいろいろと苦しい心持を感じて来ている。一昨年|上林《かんばやし》へ行ったときだってそれがあって、勉強勉強と考え、折角行ったのに十分効果をあげられなかった。熱川の三四日もそうであったが、不図考えてね、あなたも折角行っておいでと云って下さったのに、其をたっぷり休めないなんて、何というけちさ[#「けちさ」に傍点]と考え、心持のよい空気も海もあなたが皆私へ下さるものという気になったらやっと安楽になりました。小乗的で滑稽だが、でも、この気持の中には私としては本当のものがあるのです。どうかお笑い下さい。
 十六日には新響の定期演奏会をききました。朝吹という若い夫人(テニスの朝吹の一族)ピアノを弾き、なかなかよかった。女のひとでこの位量感があり、変化もある演奏をするのは珍しい。熱心に聴いていい心持につかれました。林町では咲枝が風邪で臥てしまっているので、きのうは午後から太郎をつれ戸塚へまわって達坊とおかあさんとを誘い、家で七時まで遊んでそれから私は音楽をききに出かけたわけ。
 留守の間おひささんは戸塚へ手つだいに行っていて、一日に一遍ずつ見まわりに来て居ました。
 ドウデエは昔「サフォ」がはじめで、いくつかの作品をよんだが、『月曜物語』は短篇集として様々の感想をおこさせる作品集です。短篇というものについてもメリメと比較し、モウパッサンと比較し、チェホフに比べたりすると、例えばモウパッサンの「脂肪の塊」などとドウデエの短篇とでは、同じ時期の人生の断面を其々にとらえていても捉えかたがいかにもちがう。ドウデエの思い出に、原稿が一枚かけると、小さい男の児がそれをチョコチョコととなりの部屋にいるお母さんのところへ運ぶ(浄書に)光景があり、そんな風にものを書くということを昔私はびっくりして覚えています。深刻な矛盾の中に当人が楽しそうにしている姿というものは独特の見ものですね。この小さい男の児が、今はもういい爺さんでクロア・ド・フューの仲間で活躍しているのだから面白い。父ドウデエの作品がこのように一家の歴史のすすむ酵母を既に語っている、そこが又面白く思われる。
 一緒に送りかえされて来た購求の書下し長篇小説の一冊を眺め、私は胸の中に迸《ほとばし》る苦さを抑えかねました。その作者に好意をもつ義務を感じられない、そういう苦々しさです。
 雨が上りかけて、空の西の方が光って来ました。それでも寒いこと。手が大層つめたくて、変な字になる。近日お目にかかりに行きますが、どうか風邪を呉々おひきにならないように。

 二月二十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 二月二十七日  第九信
 きょうは第四信をありがとう。この位こまやかな手紙を書いて下さるのであったら、体の工合もずっと順調でいらっしゃるにちがいないと安心です。
 私の誕生日について本当にありがとう。十三日をどう暮したかということは熱川からの手紙或はかえってから差上げた手紙でもうおわかりになって居ますでしょう。別に何というお祝ではなかったが、十三日はたっぷりとしたそして落着きのあるいい日でした。暮から私は
前へ 次へ
全119ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング