ォ一匹犬をすてて行った、小さい犬ではない雄で白いところに黒いブチがあって、よく吼《ほ》えるが一向吼える意味がはっきりしないという頓狂ものです。食物をやってマア人が通ると吼えるだけいいと笑っていたところ、ちゃんと飼っていないので頸輪も札もない。それが出かけるたんびに前になり後になりして走ってついて来る。ワンワ、今につかまるよ、などと云っていてつかまったわけです。殺されるか飼うかと二つに一つとなって飼わざるを得ない。明日警察へ届けましょう、だが年もわからず名もない。ワンワと呼ぶだけ。時には犬さんお前は少し足りないよなど云っていたのだから、Sさんに名は何てしましょうねと云うと、これ又ワンワでいいじゃありませんかという始末です。
 Sさんが来ていて呉れるのは二十日から栄さんが体をわるくして(胃腸)床についている。偶然来て泊って手伝っていてくれるのです。皆暑気当りの気味ですね。いね公もやったし大きい栄さんもちょいちょい熱を出す。それには原因があって、繁治さんがこの半月ばかり前から勤めになりました。大河内の科学主義工業の調査の方です。80[#「80」は縦中横]円。京橋へ通う。朝八時ですから六時頃おきる。妻君はそれですこし参るらしい様子です。泉子さんは赤ちゃんが出来たのと呼吸器の障害とで新協が東宝で今度やる「火山灰地」には出演不能。泉子さんを休ませる会がいろんなひとの骨折りで出来そうです。芝居の方のひとの肉体的労働というものは実に大きい。安英さんの体を見たってびっくりする。どうして持つだろうかと。すこし休んで丈夫な子を生まねばなりません。これから子供を育てるのは元のひどさと又ちがう。謂わばわれわれの貧乏が貧乏としてしかうつらないようなぐるりの有様だから。子供をしゃんと育てて行くにむずかしいわけです。スフ時代の子供ですからね。豈《あに》おべべのみならんや。
 重治さんもずっと通っているらしい様子です。てっちゃんはお祖父さんが明治のごく初め、浦塩へ役人として行ったその時代の日記を整理して一部八月の『中央公論』に発表しました。このお祖父さんというのが千葉の佐倉の堀田の何かひっぱりがあり、脱藩した形式で塾をひらいていて、西周だの西村の祖父だのが何か習ったらしい。西村の家は堀田ですから。いつかその話が出て、フームというようなわけでした。そう云えば、このお祖父さん(西村)の『日本道徳論』というのが昨年であったか岩波文庫として出ました。お気づきでしたろうか? 面白いものね。
 おひさは今夏蚕が三眠からおきたところで田舎で大働きをやっている様子です。早くかえって来たいと云っているが。
 うちのことは島田からの手紙で書いたようにまだはっきりきめられません。けれども島田へ四十日近く行っていた経験で、私がそちらにつれて動くことが多くなれば家を一軒もっていることは全く無意味です。林町の離れは、ぐるりがぐるりであり、又いろいろ大局的に、教育的に影響がよろしくない。たださえ私が金持という伝説が偏見とさえなって流布しているのですから。
 生活の本質の成長というための努力は、時には一見まことに些細なような点でさえ相対的には大切なことがあります。うちのことなど単に便宜上だけのことでないから、いつぞやあなたも一寸仰云ったように、よく考えてきめたいと思います。親しいひとたちは今のような風に生活して行けないかしらと云うが。いっそのことそこの塀のそとへキャンプでも張ってしまいましょうか(※[#感嘆符二つ、1−8−75])
 島田の方へわざわざあの本(文芸百科辞典の)送って下さって本当にありがとうございました。送って下すったのが着いたとき私はもう立ってしまっていて、フセンがついてこちらへ届きました。ざっと読んだことがある。けれども又読みかえそうという気になりました。しんから歴史をとらえた大きい感情、深い湧き出ずるものをもった文学をこの頃は渇き欲します。実に欲する。稀薄な空気の中で酸素が欲しいように欲しい。金子しげりというような女史たちが、男のズボンの折りかえしが無駄でありというような決議をする世相。「島崎藤村」「菊池寛」(小島政二郎)というような題で小説が出る流行。文学の歴史も、作家そのものが文学思潮的に稚くて、わからず知らなかった時代(例えば明治初期)と、作家の努力が作品と現実が引き込む必然からどうよけようかという点に払われる時代とは大変な相異ですね。
 今夜は栄さんもすこしましだし。大して暑くないし、久しぶりで夜机に向っていい心持です。島田のつかれが抜けないうちごたついていたから。
 本のリストはもう一度しらべてお送りいたしますが、いつか一度は、まとめてお送りしたことがあったと覚えて居りますが、どうだったかしら。これと一緒にハガキを書いてアグネスの本注文して見ます。ドイツ語のはあ
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