Aです。
 八月号の『改造』に、文芸春秋の芥川賞をとった火野葦平が、三百枚ばかり、戦地の日記「麦と兵隊」をよせています。これから読むところ。楽しみと一種の情愛を感じます。林や尾崎さんのルポルタージュとは、おのずから異った期待を与える。『中央公論』は、やはり従軍している上田広の作品をのせています(きょうの広告)こちらは、支那娘と支那軍閥を描いた小説らしい。尾崎士郎まがいの線とうねりで、「糞尿譚」をかいた作者が、上官の推薦文とともに日記を発表していて、『新文学』によっていた上田広氏が、どんな仕上げで小説をかいているか、なかなか興味がある。作者それぞれがもっている、微妙な条件と心理に迄ふれての面白さがあります。暇があるから書いたのではなくて、いつ死ぬかもしれないと思ってこまかに書いているところ、なかなか人間の生活と文学との、深い、深いきずなを思わせます。読んだら感想をおきかせしましょう。日露戦争のときには田山花袋や国木田が記者として行き、鴎外には陣中の長詩や何かがあり、一方藤村が、『破戒』の自費出版のために一家離散させた。三十年後、文学の領域はひろがっている。同時に、一家離散的面も複雑になって来ている。全体ひっくるめて、文学の収穫は豊富となり、増大しているのです。文学の全線ののびていることは、逆に中間のたるみのひどさをもおのずからひき出しているわけです。自分の力でうごかず、うごかされる部分が。この、線のたるんだ部分に、しゃがんで首をうごかして空の雲の走る方向を見上げている夥《おびただ》しい作家がいる、それさえも文学の大局から見て決して無駄ではないというべきでしょう。
 そちらからの本の中に、『直哉全集』の第一巻があったので、初めていくつかの短篇をよみました。「菜の花と小娘」など、ある美しさ、人間らしいつや、明瞭さをもっているし、作者が、よく女の子ののびのびとして弾力あるしなやかさを、理解していることがわかる。だが、この完成の境地は、全く高踏的で謂わば陶器的な美観ですね。過されている青年期というものも、今日の青年はどんな気持でよむでしょう!
 犬が鳴いて、「ミヤモトサン、ミヤモトサン」と呼ぶ声がした。(午後二時)寿江子が、「ハイ」と云って行って電報をもって来た。電報? 何だろう、あけて見て、「キンシカイジョ[自注7]」とよみ、凝っと紫インクでタイプされたその一行と名前とを見ていると、あなたの声と身ぶりとで、「さあ、おいで」と云われている心持になりました。きょうは土曜日なのが、何と残念でしょう。御苦労様、本当に御苦労さま。あしかけ五年ぶりです。このほんの短い一行にこめられている内容を考え、電報を書いていらっしゃるときの気持を考え、さっぱりした浴衣でも、うしろから着せかけて上げたいようです。よく電報をくだすったことね、ありがとう。では、この手紙も普通に近く着くことになりましたわね。はじまりの方は、半月ばかりかかるものとして書いていたのだが。
 月曜日には出かけます、ここからは池袋へ出てバスで、全体二十五分ぐらいでゆけるから。今日何か一寸してあげることは出来ないかしら。仕方がないから、色鉛筆の花をさしあげます。では月曜ね

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[自注7]「キンシカイジョ」――一九三四年十二月未決におくられてから四年めに、接見禁止、書信の禁止が解除された。予審終結の結果である。顕治は事実を公開の公判廷で陳述することを主張して白紙のまま予審終結をした。
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 七月二十六日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 七月二十六日  第三十八信
 やっぱり手紙を書かないわけにはゆかない。猶書かずにはいられないようなところもありますね。ブロッターにつかうために細く截った吸取紙をこの紙の上にのせています。ブロッティッングペイパアも元のようなのはそこいらの文房具店にない様です。
 いねちゃんの「くれない」という小説が中公から本になりますが、この表紙も注文通りの紙があるかないか判りませんからと、きのう話していました。小さい印刷やに紙がわたりません。鉛の字母が一本一厘だったのが八厘です。どしどし潰れている。本は益※[#二の字点、1−2−22]大切なものとなって行くわけですが。――
 きょう、私が出かけようとして腰を上げかけている徳さんと話していると、隣りの大家さんから電話ですと云って来た。Sさん(看護婦であったひと)が出ると、それをかけてよこしたのは寿江子で、十五分ばかり前に出かけたのにくっついて犬が駅の前へ行ったら犬狩りにつかまってしまった、おまわりさんにたのんで命乞いをしたから連れに来てくれという由。うちの小道のつき当りに一軒家があります。そこは実にちょくちょく代って、この一年半の間にも三四人代った、その一軒が引越しのと
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