R。それ限りでした。
翌十一日は母上がお見舞にゆかれ、私が家でお父さんの守《もり》をしていた。午後三時すぎ母上おかえり。やはり時間の問題と思うとのことでした。医者も今明日が危期という。お父さんは丁度九日位に血尿があって、それが鎮静していらっしゃるが、これらのことで興奮なさり、食欲不振でした。カンシャクも起った。それやこれやを話して、私は本をよみながら裏で風呂を焚《た》いていたら、様子がわるいからすぐ来てくれという電話です。母上、今おかえりになったばかり。すぐ達・隆がトラックでゆきましたら隆がとってかえして来て、もうおなくなりになったとの報知です。呆然としました。それから母上、私、隆と野原へ出かけました。出かけようとしたら、父上、母さんを呼び止め、「俺がゆかれんから二人分してやってくれ」とおっしゃったそうです。隆治さんは初めて近親の死に会って非常にショックをうけました。激しく泣いた、私は、涙が胸の内側に流れるようで。(もっと複雑な感じ。時代的にも人生的にも様々の思いの輻湊《ふくそう》した)
富雄さんは十一日の朝、克子は御臨終の直前にかえりました。講中の人々が来ている。あわただしい人の出入り。母上と私とは二時すぎまでお通夜をしてかえりました。私は私たちにとって一方ならない御縁の方であるからずっとお通夜したいと思ったけれども、お母さんが私の盲腸がわるいのでお許し出ませんでした。十一日に隆に託してお見舞を十円。御香典には貴方のお名前で二十円。
私が来ていたうちに全く急にこういうことになったことを、皆と単なる偶然ではないように話し合っていました。百合子はん会うたのは顕ちゃんに会ったもホンついじゃから、因縁《いんねん》じゃのう、しきりに伯母さんも云っていられます。伯父上としては御苦痛なく、あの家でおしまいになり、あの家から葬儀の出たことはマアよろしかった、お母さんのそういうお言葉には私も同感です。
御年五十四歳、母上より一つお若いのです。
十二日のお葬式には最後のお寺詣りまでずっとお伴しました。今十三日はお骨上げです。うちからは達ちゃんが行って居ります。野原の家、屋敷は只今は兼重萬次郎という人の手に入っていることになっています。しかしこの人はお母さんのよく御承知の人物で、自身の権利として二千円ばかりのものを回収すれば、あとは若し余分が出れば遺族に上げると申して居り、それは信用し得るそうです。
富雄さんは広島へ帰るのをいそいでいるが、伯母さんや冨美子はこっちの整理つき次第広島にうつるでしょう。克子は大阪の、こっちのお母さんの従弟とかの家にここ三四年行って働いて居り、又そこにかえりそこから結婚の心配もして貰う方針です。多賀子は未定ですがここに手つだってやはり身の振方をつけていただく方がよいかと考えます。お母さんもそのお考えで、冨美子は出来るから師範に入れるプランであった。それはその方がよい。富雄の生活は確実性がないから。未だ申しませんが、伯父さんの御厚情を考えて、私たちは冨美子の学資を何とか助けてやりたいと思って居ります。たとえ少々でも。貴方も御賛成でしょう。十四日にあっちの若い人々が来ます。又いろいろ話しましょう。そして、私は十五日に立ちたいと思って居ります。
父上はずっと平静でいらっしゃるから御安心下さい。尿も血がなくなり量も殖えましたから。
四月十四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月十三日 島田。
さっき書いた手紙を出して貰い、寝台券をとって貰いました。十五日に立つことに決定しました。
昨夕は御葬式がすんでから(こっちの家でそれは負担なさいました)克子、多賀子、達治、私、座敷でいろいろ話した。玄関から台所の方はずっと襖をとり払って大広間とされて居り、近所の人々が酒もりをしている。その声が中庭越しにきこえる。裏へは急造りのカマドが二つ出来ていて、湯殿の前のところへ台を出し、附近の子供が二十人近く石ころ、レンガ、薪をこしかけにして御飯をよばれている。おっかさんたちが手伝いに来ているからでしょう。
話しているところへ伯母さんも来られ、私がつくという話がわかったら、伯父さん一方ならないおよろこびで、島田の二階の方はさむいが、炭とりがないから一つこれをかしてやろう。花も好きだが、あっちにはないからこれを、と、わざわざ炭とりと花瓶とを運んで下さったのだそうです。私はそうとは知らなかったが、この炭とりには重宝して、本当に伯父さんがおっしゃった通り、そこから炭をついで一寸した書きものをしたりいたしました。花瓶も、お母さんがただ野原からくりゃりましたとおっしゃったが、私を歓迎のためとは知りませんでした。どこまでも伯父さまのやりかたですね。
それからあっちへ遊びに行ったとき、私はあなたがおっしゃったことをもつたえ実際的の話を伺いたいと思ったが、簡単におっしゃり、楽観的におっしゃるぎりで、それ以上つっこめませんでした。こっちのお母さんのお話で、講以外に負債がおありになり、あの土地を処分するしかないことは分って居りましたが。
野原は今の交通関係では昔とちがって全くの閑地ですね。あすこは隠居地です。
お葬式は御承知のとおりこっちの真宗(西本願寺なむあみだぶつ)の式で万事やられました。様々の習慣がちがうから、私はお母さんのあとについて、白いカツギをかぶって、白と緑の造花をもってお墓へおともしました。達ちゃんと富ちゃんが組んでいろいろのことをしました。隆ちゃんが真先に道あけあんどうというものをもち、母上、私、女の子たち、僧侶、富ちゃん、お棺、達ちゃん、それから伴の人という行列で、豌豆《えんどう》が花咲き、夏みかんがみのり、れんげの花の咲いている暑いような陽の道をお墓へとねってゆきました。そこで式があり御焼香があり、それから火葬場へおゆきになり、私たちはかえったわけでした。
又うちで読経、焼香、御膳がでて、親族のものだけお寺二つへまいりました。町の中のと、山の高いところのと。その山のお寺には白と紅の芍薬《しゃくやく》が花盛りで、裏を降りてくると松林の匂いがしました。海はすっかりかすんでいた。そこで紫のスミレを二つつみました。今にお目にかけましょう。伯父さんのような方にふさわしい晴れて花のあちこちに咲いた日でした。
四月二十日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(はがき)〕
四月二十日夜。きょうの午後慶応大学病院へ行って、盲腸の手術のことについて、以前から私の体を診て貰っている医者に相談したところ、切開することは中止するようにとのことで、手術はおやめです。目下盲腸は癒着《ゆちゃく》しているからつれたり何か無理がゆくと工合わるい程度であるのに、余り丈夫でないのに切るのはというわけです。御心配なさっているといけないから、とりあえず。
四月二十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月二十一日、荒っぽい風の日、こういう風は大きらい。
むしむしとして、埃いっぱいで。落付かぬ天気ですね。きのう夜ハガキを書いた通り、私の盲腸は手術しないことになりました。自分では弱い体という風に考えずにいるのに、もし万一という条件がつくとは何だか可笑しいようです。盲腸もこう癒着して居れば、急に腹膜をおこすこともそうないだろうということだから、マアいいにしておきます。今、ベラ・ドンナという鎮痛のための薬を少しのんで居ります。あなたの盲腸はずっと納って居りますか? 私はどうしても貴方の生きていらっしゃるうちは生きていたいから、荒療治はおやめです。島田で苦しいのを我慢しながら、お父さんの診察に来る裏の何とかいう髭を眺めていたら、心細くなって、一そ切って置こうと思ったのでしたが。
そういえば、お目にかかったとき、厚着していらっしゃるように見えたのですが、ちがうかしら。今年、もしお体の事情がすこしましであったら、そろそろ皮膚の抵抗力をつよめるようにしましょうね。
島田が、私の故郷のような感じになって、ときどきチサの和えものだの、新鮮な魚だのを思い出します。島田川の岸の景色も心にのこっている。お父さんは、私がのませると薬をあがり、ほかの人だと、ぶってこぼしてしまったりなさる。安着の電報に添えてチチウエ、オクスリヲヨクメシアガレとうったら、この頃お母さんや達ちゃんたち、閉口するとそれを護符のようにもち出す由。あなたからも、この薬をのむことと、お小便をとるための袋をおつけになることの必要をよく云ってあげて下さい。今日、この袋はお送りするのですが、おむつではどうしても不潔で細菌が犯し、膀胱《ぼうこう》カタルを猶悪化させますから。きのう慶応でいろいろ訊いて来たことの一つです。すっかり腰が立たなくおなりになったことが膀胱の活動をも鈍らせるのだそうです 麻痺によって。お父さんは、そういうものを五月蠅《うるさ》がりになるのです。
お父さんは何という直情径行の、そして一面弱い方でしょう! 何と弱い方でしょう! 貴方が少年時代から恐らく感じていらしったろうと思う種々の感情の明暗が、今度三週間暮してかなり推察されました。達ちゃんと隆ちゃんとでは情感の動きかたのタイプが違います。達ちゃんは常識の平面を横に動く。隆ちゃんの天性は縦《たて》の方です。生活が体をつかって、かえれば食べて眠くなる生活だから素朴な表現をもっているが。隆ちゃんはどこか貴方に似て来ている。
島田は確に昔より楽になって来て居ります。そのためには実に尽大な努力が払われ、やや小康を得て、すこしは家の気分にくつろぎが出ている。父上も寧ろ今は仕合わせな病人でいらっしゃいます。この半面には、この調子を保って行こうと欲する、極めて自然な要求が心のどこかにあって、それは、結果としては万事事なかれ風なものになっている。人間の心持というのは何と微妙でしょう。休息が今肉体的にも入用なのであるから、或意味で神経を鎮める上にも、自然の作用なのではあろうけれども。――私のしてあげる一寸したことでも実によろこんで下さる。すまないように悦んで下さる。よろこぶのを待ちかねていたようによろこんで下さる。そして、そんなによろこばれながら、そのよろこびは、全く日常性の範囲にだけガン強に限られていることを強く強く感じるのは何という悲しいよろこびでしょう。私はこれまでこんな感情は知らなかった。理屈に合わぬことは合理的なものの考えかたというところから話してやって来た、自分の親などにはずっとそうしてやって来た。
いろいろの点から、実にためになりました。本当に行ってよかった。これまでの私の生活の中にはなかったものが見られたし、接触出来たし。
一つ傑作のエピソードを。
或日、タバコ屋の方で人の声がする。前掛をかけた丸いユリが出てゆく。「バット一つ下さい」それが爺さんで、ユリの顔を見てはにかんだようにする。「ハイ、どうもありがとう、二銭のおつり」爺さんやっこらと腰をかけ、バットをぬいたがマッチをもっていない。「マッチがいりますね」わきの棚を見ると、マッチが沢山ボール箱に入っている。「ハイマッチ」「いくらです」見ると一銭とある。ユリ何心なく「一銭だが、マアいいその位のもんだからつけときましょう」「ハア、それはどうもありがとう」爺さん満足してかえる。ユリ、のこのこ中の間の方へ来かかりながら、オヤ、アラ、と気がついて、あああのマッチは売りものだったんだ、一銭だってとらなければいけなかったんだ、と気がついたときは、もうおそい。バット一ヶは利益八厘でしょう、一銭のマッチをつけては二厘損したわけになる。ユリ、ひとりで襖のかげで口をあいて笑ったが、お父さんにも母さんにも云う勇気なし。以上、傑作お嫁の商売往来、秘密の巻一巻の終り。
一巻の終りと云えば、島田へ野天のシネマが来て、二人と多賀子と野原から来ていた冨美子をつれて宮本武蔵を見にゆきました。島田では『大阪朝日』をとっています。そこに学芸欄というものは殆どないの。武蔵や連載小説が、関心の中心です。地方文化ということについて非常に考えた、又私
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