四月五日。ひどい風ですが、野原の叔母さん、冨美ちゃん、多賀子、こちらはお母さんと私という同勢で徳山公園のお花見にゆき、かたがた二番町の岩本さんと井村さんのお宅により、私はお母さんの後からよろしくと申して来ました。徳山中学校の屋根が見えました。徳山銀座で私がころびました。徳山駅は目下改造中で大ゴタゴタです。きょうは日がいいと見えてお嫁さん二組に会いました。
四月五日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月五日曇天、島田からの第四信。
こちらへ来てから十日経ち、家にもおちつき、いろいろこれまでの手紙で書いてあげ落したことを思い浮べます。今父上は眠っていらっしゃる。この頃はお母さん午後ほんの一寸体を横になさいます。夜、ゆうべ三度もお起きになりました。夜の世話が母さんには一番健康的にもこたえるのですが、どうもお后《ゴー》さんでなくてはお父さんのお気がすまない。あなたはきっと、こんなに気の折れて「お后《ゴー》ここへ来《キ》」と炬燵《こたつ》に自分のそばにおきたがっていらっしゃるお父さんを想像お出来にならないかもしれませんね。おや、下でガタガタいっている。きっとお父さんの御用便ですよ。(中止)何て重いお父さん! しんが非常に御丈夫なのね。一日おき二日おきに自然便がおありになります。木の腰かけ便器ができていて、そこへ、かけ声をかけて動かし申すのですが、女三人ではほんとにやっと、やっと。
この間、宮島へ行ったとき夕方からあすこの岩惣《いわそう》という家の、川の中にある離れに休んでお母さんといろいろ話しました。そして、達ちゃんの結婚式のとき、ハイこれは顕治の嫁でございますというのもおかしいから、こんどかえり間際にでも、一寸ものを持って組合[自注11]と近所にお母さんがつれて挨拶をして下さることになりました。三十一日に急にタオルを三本一箱づめにしたものを東京へ注文したところ(十七軒分)。私は「ここのもの」になりました。これはいろいろ面白いの。きのう徳山にいられる甥(銀行員)が娘さんのお嫁のことで見え、私が初めて紹介された。前かけをかけていたら、お母さんそれをおとらせになって、髪をかきつけてきた私を一寸しらべるようにみて、そしてお引合せになるの。私がお母さんのわきでお茶をいれたり何かする。それを、お父さんまで至極満足そうにして眺めていらっしゃる。こういうときの私の心持、おわかりになるでしょう? もし貴方がわきにいらしたらどんな顔をなさるだろうと、あなたの独特な一種の表情を思い浮べ、微笑も禁じ得ず。但しこれはひとりになってのとき。
私はこっちの地方と東北の田舎とを比べ、事毎におどろきます経済的な点で。みんな女のひとなど都会風の装《なり》。一寸出かけるにもよいなりをして、私なんか質素です。そういうこともおどろきます。中学生は在郷軍人の服と同じ色の服、キショウだけちがう。女学生は大抵東京と同じセイラアです。野原にゆくとき虹ヶ浜にまわりました。春陽駘蕩《しゅんようたいとう》たりという景色で、あの家[自注12]には人が住んでいました。下松《くだまつ》には日本石油、その他工場が近頃の景気で活動して居り、江の浦のドックにはウラジオからも船が入ります。そこの職工さんたちの住居払底で、虹ヶ浜の小さい家はこの頃よくふさがっているのだそうです。島田の高山(呉服屋の隣り)は石油とギャソリン専売権をもって居り、うちは多くそこの仕事をする模様です。今度ガソリン一ガロンにつき五銭価上り、一カン二十五銭高。うちの車は一日に一カン位入用の由です。運賃を今のままでは引合わないという話がでています。うちの車庫は、店のとなりの方。もと製材のあったところを車庫にして、となりを木炭倉にしてある。きのうその辺をみていたら、店の前で近所の女の人たちがお母さんと私をつかまえ、かどぐち社交がはじまって、くすぐったかった。ここは全く小さい町気質ですね。言葉にしろ。河村さんの娘が高森の写真屋に嫁《かた》づいたのでその写真やに六日に来て貰って、ここの一族、野原の皆が写真をとります。そしたらお目にかけましょうね。
汽車の音は賑やかなものと思っていたら、この辺は小駅であるから一種寂しい心持を与える。汽笛が山々に谺《こだま》する。ギギー・ゴトン貨車の音など特に。少年のあなたはその響をどんな心持でおききになったろうと思います。きりなしだからこれでおやめ。
〔原稿用紙に書いてある手紙の欄外に〕
ここに暮していると小説的な風に感情が押される。
こっちの風景は明媚《めいび》であるけれども、景色そのものが自身で飽和している。そこから或るつまらなさ。北方の荒涼として情熱的なところがない。それでいてこの辺は乾いている。
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[自注11]組合――隣組のような町内の組合。
[自注12]あの家――顕治が学生時代夏をすごした家。
[#ここで字下げ終わり]
四月十日夕 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月十日 午後 暖い晴天。島田からの一番終りの手紙(第五)
私は五日頃かえるように云っていたからもうこちらへは手紙を下さらないのかもしれない。店で、お母さんがあなたに上げるとおっしゃる肌襦袢を縫っていると、「ユービン」と云って河村さんへ自転車にのった若者が何か入れてゆくのが見えました。河村さんに郵便が来てこっちに来ないのは大変不思議に思えた。そして、又縫っていたら河村さんの細君がキビの餅をもって来てくれ、達・隆はそれを頬ばって仕事に出てゆきました。
この河村さんの娘が結婚している写真屋さんに来て貰って、二三日後一家全員で写真をとり、大さわぎでした。あなたにお目にかけるために。七日に、背戸《せど》を見晴すガラス戸が出来上り、大満足です。二尺三寸の一枚ガラスをはめたから雨の日も外が床の中から見えます。きのうは、金物屋のおくさんが字を書いて呉れということでした。夜は、おかあさんが、私をつれ、三越から届けさせたタオル三枚入りの小箱をもって、近所にあいさつにまわりました。「よいお日和《ひより》でございます。あの、これが顕治の嫁でござります、どうかよろしく。日頃御厄介になっちょりますから今度見舞いに参りましたについて、一寸お物申したいと云って居りますから」云々。そうすると、私が「どうぞよろしく」とおじぎするの、お母さん大安心の御様子でお店の敷居を跨《また》ぎつつ「サア、こうしておけばもうおおっぴらにお歩きさんし」
おじぎをするとき私は大変お嫁[#「お嫁」に傍点]のような気が致しました。
きょうは蓬《よもぎ》つみに島田川のせまい川辺へ行きました。橋(フミ切りのところ)で達ちゃん達がそのときはトラックを洗っていました。その道で荒神さんの高いところにものぼりました。その石の段のところに野生のわすれな草が咲いて居た。勿忘草《わすれなぐさ》など通俗めいているけれどもああいうところであなたは子供の時お遊びになったのでしょう? 何だかそれこれ思ったら子供らしい愛らしさがあって、その花をつまみました。今押してあるから出来たら又お目にかけましょう。島田川の白菫《しろすみれ》も。皆、実に自然主義文学以前の、日本的ロマンティシズムの素材で面白くて仕方がない。藤村の詩など考え合わせると、日本のその時代の文学の地方性=フランス・ロマンティシズムの都会性に対する=が感じられます。私は十二日の朝ここを立ちます。来るのはよいがかえすのはいやだとしきりにお母さんがおっしゃり私もその心持です。いろいろ、お味噌だの、かきもちだの草餅だの外郎《ういろう》だの小さいすりこぎ[#「すりこぎ」に傍点]だの頂いてかえるの。私を可愛がってくれた祖母が田舎から私にくれたものを思い出して、私は大層うれしがって居る次第です。
お父さんは腎臓に障害が起って居ります。やはり順々にそういう新陳代謝には故障が起るのですね。この手紙がここでかく手紙のおしまい。私が、こんな島田川の手紙をかくなんて、なかなかいいわね。では又。お目にかかる方が早いのだから、そのとき他のことはいろいろと。
〔欄外に〕この桜は室積の桜。潮風に匂う桜は大変ここら辺のより豊かに美しいと思いました。
四月十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕
四月十一日。昨夕七時頃野原から電話で、叔父上急に右が痺れて口が利けなくおなりになった由。達治さん多賀子私うちのトラックにのってゆきました。既に昏睡《こんすい》です。瞳孔反応なし。今朝十時富雄さん帰り。三時(午後)克子大阪より。私は明日の出発をのばして御様子を見、且《かつ》お世話をいたします。血圧二百二十。この前の発病は百八十であったとのことです。第一信
四月十一日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(はがき)〕
野原伯父上今度の原因は、日頃やはりお酒を相当あがっていたところへ、昨日は好天気だったので、ひなたで植木いじりをしていらっしゃり、夕方大変いい心持で、風呂に入ろうなどいって居られたところでした由です。「おせん、右へ来たぞよ。おれは奥でよこになるから駅へ電話かけえ」とおっしゃったきりになった。あなたのお手紙のことを改めて申上げたら、もうこれから絶対やめるといっていらしたというのに。
四月十三日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕
四月十三日 島田。晴天、暖し。
野原伯父上の御急逝には実におどろき入りました。さぞびっくりなさり御残念でしたろう。前後の御様子をかきます。
この前の手紙で書いたように、私が着いた日、光井からお出かけになり、いろいろの話をし、愉快そうに夕刻までいておかえりになりました。それから三四日して、私が午後から伺い、おそいお昼をメバル[#「メバル」に傍点]で御馳走になり、お母さんのお云いつけで、お墓詣りをすると云ったら伯父さんも一緒に出られました。村会議員の選挙などの話があってひとが来たりし、夕方私がおいとまする迄、やはり面白そうにお話しでした。「自分はいろいろ悲観するようなときは百合子さんの笑い顔を思い出して元気を出す」そんなことを云っていらしった。家の整理についてのお話も出ました。土地六百坪一括しては買い手がつきにくいから区画して手ばなしたいとか、鶏舎はよそへほぐして売るとか。
そのときも、私が着いた日も、伯父さんは私の前ではお酒召上らないが、やっぱり上っているらしい様子なので、よくよくそのことを申上げたら、タバコはやめにくいが酒はなくても平気と云っていらしった。あなたのお手紙にあったことを私は自分の出発の時刻をお知らせするハガキにわざわざ改めて書いて上げました。
九日の夜、私は十二日の上《のぼ》りの寝台券を買った。十日の午後七時頃、夕飯をたべようとしていたら、野原から電話。伯父さん口が利けんようになったから、多賀子をかえしてくれ云々。氷と氷枕を買って戻れ。
達治さんが丁度いて、私は心配だから一寸様子を見て来て注意することがあればして上げたいと、トラックで三人でかけました。冨美子をたった一人の対手で伯母さんはあわてていらっしゃる。中庭を隔てた日頃のお寝間に行って見ると、一目で昏睡であることが分りました。やがて医者が来て、瀉血《しゃけつ》を五勺ほどし、尿をとり、血圧を低めるための注射をしました。そして小一時間の後かえったら、激しいケイレンと逆吐《しゃっくり》が起りました。その時からずっとお顔の様子がわるくなった。私は富雄を呼ぶこと克子を呼ぶこと等一時頃までいろいろお世話しましたが、どうも御容態が思わしくないので、次の日の朝、貴方に電報した次第です。十日の日は暖かった。伯父さんは上機嫌でひなたで竹の鉢植をこしらえるためにお働きになった。そして、夕方珍らしく飯がうまいと、五杯もあがり、あと、よそから来た餅を二つあがった由。そして、そろそろ湯に入ろうかというとき、急に右がしびれ出し、こっちへ電話をかけるよう指図をして自分で床へお入りになった。冨美子が枕元についていたら「おや、目が見えんようになった」と仰云った
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