獄中への手紙
一九三七年(昭和十二年)
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)数珠子玉《ジュズコダマ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)香|馥郁《ふくいく》たる

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/意」、第3水準1−91−30]

〓:欠字 底本で不明の文字
(例)これは芝居のや〓〓をもったかきわりの如し。
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 一月八日午後 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 一月八日  第二十六信
 晴れ。五十一度。緑郎のピアノの音頻り。
 今年の正月は去年とくらべて大変寒さがゆるんで居りますね。そちらいかがですか。お体の工合はずっと順調ですか。畳の上で体が休まるということを伺って、きわめて具体的にいろいろ理解いたしました。何でも、世界を珍しい暖流が一廻りしたそうで、大変あったかい。それで却って健康にわるく、世界に一種の悪質の風邪が流行している由、称して、ヒットラー風。
 私は、今年の正月は余り自動車にものれず、餅もたべられず、おとなしい正月をいたしました。盲腸の方も大体障害なく、きのう野上さん[自注1]のところへ行ったら※[#「くさかんむり/意」、第3水準1−91−30]苡仁《ヨクイニン》(何とよむのか忘れてしまった、田舎にも生える数珠子玉《ジュズコダマ》という草の支那産のものの由)という薬を教わって来ました。彌生子さんの盲腸もそれでなおした由。二月の『文芸』に横光の「厨房日記評」を二十枚ほどかき『文芸春秋』の文芸評を今準備中です。文芸懇話会賞の室生犀星は「雑沓」などは題材的に歯に合わず活字面を見ただけでうんざりの由です。横光、小林秀雄、犀星等、芸術上の高邁《こうまい》イストが、現実において一九三七年度には急速に自分達のポーズと反対のものに落下しつつあるところ。日本文学の上に一つの新しい歴史の生れたことを、感じ、興味津々です。一月中旬に白揚社から本が出るのだが、まだ題名がきまらず。何かいいのはないかと考え中です。生活的でうるおいがあって、音楽的色彩的であるようなの。
 いつぞやから、私の家について云っていたのを覚えていらっしゃるかしら。あなたが皆とかたまりすぎて夜更しばかりしないようにと注意して下すったし、そのことをも考え、一緒に住む人のことをも考え、なかなか決定いたしませんでしたが、この正月三日に、目白のもとの家[自注2](上り屋敷の家です。覚えていらっしゃるでしょう?)のそばで、小さい、だがしっかりした家を見つけ、そこを借り、Xと一緒に暮すことにいたしました。家賃三十四円也。上が六畳で下が六・四半・三・玄・湯殿というの。部屋が一つ不足です。だが家賃との相談故これで我まんします。一つ一つの部屋が廊下で区切られていて南向きです。二階は一日陽がさし、どちらかというと直射的だから勉強するために刺戟がありすぎます。陽よけの工夫がいるほどです。五尺四方というフロ場! 用心はよさそうで、省線に近いが静かです。Xか、Dさんから手紙が届きました? XとDさんとは結婚することになりましたが、Dさんの家庭の事情、経済事情がまだXと同棲するに至っていないので、Xは当分私と暮します。Xは詩を書いてゆくのですが、家から一銭も来なくなってしまった。十二月には私が下宿代を出しましたが、毎月そのようには行かないから一つは家を持つことを急いだのです。この二人は、勿論多幸ならんことを切望いたしますが、今のところX自身、愛情と一緒に一種の不調和を感じて居るらしい。このような直観的なものはゆだん出来ませんからね。Dさんは確かに人の注意をひくに足りる人ですが、あらゆる過去の経験で人に愛され、便利で信頼し得る友人をもち、いつも出来る人物と見なされ、自身それを知って、家の中では唯一人の男の子として生活して来た人にありがちな一つの特長をもっている。素直な人でしょうが、そういうものは強くある。よい意味でも、まだペダンティシズムをもっている。Xにはスーさんとは違うが、似た気質あり。すっかり納得ゆかないうちに一方では衝動的に行動する。人と人とのことはむずかしいものね。私はXと暮す以上は大いにXをふっくりしたものにしてやりたいと思って居ります。でも、私とXとは持っている感情の曲線が何という違いでしょう。Xは細いマッチの棒ぐらいのものをつぎつぎにもっている、そして詩も三四行のをかくの。こういう芸術の有機的つながりは実に微妙です。
 健康のためにも、仕事のためにも生活を統一する便利が殖《ふ》えるから、家をもったら能率的且つ書生的に暮します。楽しみであり、一寸うるさいナと思うのはXのこと。でも決してわるいというのではないのです。
 一昨日の晩であったかKさんが始めて家へ来てしみじみ話して行った。人間が孤立的になる場合、その原因は人間としてのプラスの面からだけでは決してない。私はそのことを率直に話しました。そのように話したのは恐らく知りあってからはじめてです。稲ちゃん達はなかなか悪戦的日常(経済的に)ですがよくやって居り、静岡から妹夫婦が東京へ転任になって来ました。私の引越しは十二日頃です。番地がまだ不明。おしらせします。引越したらお目にかかりに行きます。お体を呉々もお大事に。変な気候をうまく調節してお暮し下さい。

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[自注1]野上さん――野上彌生子。
[自注2]目白のもとの家――一九三一年初夏から三二年一月下旬まで百合子が生活した家。
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 一月十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書)〕

 一月十六日 午後四時 今柱時計が四つ打つ。
 今年になって二つめのこの手紙を、私が何処で書いているとお思いになりますか。きっと、前の手紙を見ていらっしゃるだろうけれども、これは私たちの新しい家の二階の六畳のテーブルの前。やかましくない程度に省線の音をききながら、そして、この紙の横にあなたからいただいた二通の手紙、十二月二十六日のと一月六日のとを重ねておき、くりかえしくりかえしよみながら。丁度くたびれているひとが煙草を腹の中まで吸ってつかれをやすめ心愉《こころたの》しくしているような工合に。――十三日にこっちへ引越し、Xさんが家の仕事に馴れないし、いろいろ揃える仕事、本を片づける仕事その他できのうまでゴタゴタ。やっとさっき風呂に入り、さっぱりと髪を洗い、十三日の朝引越しさわぎの間で遑《あわただ》しく立ちよみして来た二つの手紙をよみなおし、この家ではじめて書くものとしてこの手紙を書いているわけです。十三日は、十一日までアンドレ・ジイドについての感想的評論をかいていてつかれ、(ジイドがURSSへ旅行したその旅行記に対して『プラウダ』や『文学新聞』が批判している。だが作家の内的矛盾の過程はその内部へ入って作家の独特な足つきに従って追求してゆかなければ、文学愛好者には納得ゆかぬのですから)十三日の引越しはどうかと、あぶながっていたところ、スエ子がなかなかのプロムプタア役で到遂[#「遂」に「ママ」の注記]引越しはスみました。十三日の晩は良ちゃん、てっちゃん、池田さん、詩の金さん、戸台さん[自注3]、栄さん、手つだいやら様子見やらに来て、十一人位で夕飯をたべました。
 上落合の家にいたときは、大体独りっきりで、栄さんが近所に住んでいたから暮せたようなものの、ひどかった。その点今度はいいでしょう。但物価は最近五割近く高騰したものもあり、その方は閉口です。民間のサラリーマンの月給も上げてほしいという声たかく、偉い人々例えば(陸相)など民間も協力せよと云っていて下さるが、文筆家の稿料はどなたも上げよと仰云らぬ。いろいろ活きた浮世は面白の眺望です。お鍋を一つ買ったら、その商人曰く、これだけは昨日のねだんでお売り申上げますと。
 ところで、この二つのお手紙は、いろいろの意味で私には大変うれしゅうございました。いつもながらありがとう。記念の心を送ってやりたいと思っていて下さるということ。どうかよく考えて、素敵な言葉でも下さい。そう書かれていることが既に私にとっては、香|馥郁《ふくいく》たる悦びの花束なのだけれど。こういうおくりものに対しては私は寡慾ではいられないわ。手紙を毎週待ったことは、私の申上げたことは覚えていたのです。もしか毎週書いていて下さるのに届かず、しかもそうと知らずにいるのなどつまらないから、それで一週間おきにと云ったのでした。しかし、ほしいという面から云えば毎日をもいとわず。今年は、お気の向くとおりに下さい。自分だけの心持を押し立てて云えば、あなたの手紙を血の中にまで吸収するのは誰よりもここにいる一人だと思っているのだから、云わば一行だって、ほかにこぼすのはいやな位、その位の貪婪《どんらん》さがあるのだが、そこは市民の礼譲で、どうぞほかへも、と云っている次第なのです。この正月は『文芸』へ横光の「厨房日記」の評を二十三枚、ジイドのを二十四枚かき。どれも最近の文集に入ります。きのうの晩も題を考え、なかなかうまいのがなくこまります。「昼夜」というのにしてスエ子の装幀にしようと思うのです。活きて動いた絵をかいて。これはもう原稿をわたす必要あり。木星社の本は二十五日です。私はその後書きを、心を傾けたおくりものとして一月の二十三日に書きます。よいものを書きます。そして、間に合えば、私の本やもう一つの本の印[自注4]は、あなたの書いて下さった私の名をそのまま印にしたのをつかいたいと思って居ります。これは大変好いでしょう? 思いつき以上でしょう。ねえ。この家は、同じ方角できっといい月が眺められるでしょう。きのうあたり夕月がきれいでした。晴天だと、遠く西日のさす頃、富士も見えます。本のことAさんにつたえましょう。やっぱり林町からこっちにうつってよかったと思います。時間を十分活用出来るという点からだけでも。あっちでは、今太郎が風邪、母さんも風邪。丁度私が引越した日から臥《ね》て居ます。食堂でストウブをあったかくして、廊下や何かはさむい。そういうのが非衛生なのでしょう。
 きょう思いがけなく山崎の伯父さん(島田の母上のお兄さん)が見えました。この八月頃から東京暮しで高橋というひとのボロの会社(ほんもののボロです)につとめて居られる由。娘さんの一人が阪神につとめていたのが小林一三に見出されて今は映画女優の由。そのお姉さん(虹ヶ浜へ行ったひと)が岩本さんの奥さんの由。いろいろお話を伺いました。山崎さんは下の娘さんと松原(小田急の沿線)に住居です。この頃、私の最近の学習語は本が入らず役に立てたいにも立てられません。又ごく近々ゆっくり書きます。この二つのお手紙に対してのこった返事を。私の鉢のは南天の葉よ、紅葉ではないの。お正月の南天。ではどうぞお大事に。
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  〔欄外に〕
 ○父がああいう生活力の豊富さからかもし出していた家風というようなものは、父なしには保ちません。その点大変微妙である。私がその継承者で発展者であるわけですが、日本の家というものは主人が主人ですから。私も小さい家で、私たちの家のここでの主人とならねばならぬ訳。
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[自注3]戸台さん――戸台俊一。戸台俊一は日本プロレタリア文化連盟の出版部・書記局などに活動して、一九三二年の春からのち、三三年、三四年と日本プロレタリア文化連盟「コップ」が解散するまで実にしつこい弾圧と検挙を集中的にうけた。三三年ごろは、二ヵ月も三ヵ月も留置場生活をしたあげくに、やっと釈放されて五日目に往来を歩いていたら警視庁の特高が「なんだ、君は外にいたのか」とそのままつれて行ってぶちこまれたというようなことさえあった。未決生活も経験している。「コップ」の最後の時期のもっとも忠実な同志である。
[自注4]本の印――顕治の手紙にあるあて名の百合子という字をそ
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