に作家を大成せしめるかということについて、実に興味というには複雑すぎるほどの感興を抱いている。わが身についても。内からの力と外からの力。その波はどのように将来の二十年ぐらいの間に一ヶの作家を押すでしょう。この考えは、一人の作家として自力で可能な範囲での努力は益※[#二の字点、1−2−22]おしみなくやって見る必要があるという結論を導き出すのです。
本年は私の文筆的生涯のうちで、決して尠い仕事をした年ではありませんでした。所謂拙速的仕事もしなければならないこともあったが、私の拙速は決して投げたものではなく、最上に最速にという工合であったから、一年経って顧ると、自分が一番能力を発揮して一つの仕事をまとめ得る時間、用意それぞれが評論ではこんな風、小説ではこんな風と、技術的に理解を深められました。
専門家としてはこういう自分の性能を知ることも必要であり、そのためにはやはり一杯にフルにやって見る必要がある。のろのろしかやれないもの、或程度のスピードを出してよいもの、ひとりでに出るもの、だがスピードの出た頭の活躍がどんな傾向を人間として作家としての私の中に蓄積してゆくか。こういう点をもやっぱり研究して見る必要がある。
私は永年極めて自然発生的に内部の熱気に押されてばかり仕事をして来たから、この頃いろいろこんなこまかいことも意識にのぼって来て、建築的に仕事を考えるようになったのを面白く思います。
一水会と言う絵の会に、昨日光子さんと寿江と三人で行って、有島生馬の絵を見てアマチュア芸術家の陥るところは恐るべきものであると感じました。絵を、ネクタイを結ぶように描いている。楽でアットホームであるというのではない、だらんと、只手になれていて、感動と洞察と追求が全く現実に対して発動していない。金のある人間が、ヴェランダで煙草をふかしてのびているようです。里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]、生馬、武郎と考えて、武郎の生死について感じました。岩松の絵、どうも見た目のエフェクトを狙うことが巧みすぎる。正直に脚《あし》までちゃんと描かない。光子さんの絵は造船所の旋盤工場だというので、実はあの人のよい意志とは云え、或堅い定式かと心配していたが、絵を見て感心しました。二十号だが、ちゃんと色彩の感覚、働いている人間への共感、皆もって明るく水気をもって描かれている。大変うれしかった。百円の絵です。買い手を欲しがっている。但し、彼女の芸術の過程を愛するものでなければ、この絵はサロン用ではないからなかなかむずかしい。柏亭先生に世話をたのんだらと云ったら、洋画家のパトロンとの関係の個人主義、極秘主義というものはひどいものらしく、自分が口をきいて売れるところをひとに紹介などはすまいとのことです。この世界は知らなかった。絵というもののかげの世界のおくれ工合、険悪工合にはびっくりしました。
きょうから、『発達史日本講座』の現代文学をかきはじめます。この頃、小説にくっささりたい。それに夏からのこの約束で、フーフー。五十枚ばかりだから、ユリよがんばれ、です。これさえすますとこの種の予約はまぬがれます。
キャベジの葉のようなのというのは葉牡丹でしょう。それは、市民的正月の恒例である葉っぱです。外側の葉の枯れるのをはがすと内へ内へとキャベジのように新しくなって行って、しまいには大変柄の長い玉になります。私たちは今年の暮は、何となし愉しい。そうではありませんか。とにかくいつなまけたということはなく生きたし、あなたは快復に向っていて下さるし、今年のために私達は何かしようとしていたところ優しい絵も二つ出来たし。年を送るという感情がこのような安心を伴って、感じられることは何年にもなかったことです。而もほのぼのと日ののぼる感じをもって。では又、かぜをひかないで下さい。
十二月十一日午後 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月十一日 第四十二信
けさ、あなたの十二月二日づけお手紙がつきました。ありがとう。いろいろな心持というものも、こうして字にかいておけばこそ一層はっきりとした存在となって確実に実現するのは、実に妙ですね。私はこのごろ、仕事にふれてこの事実を深く感じている、もし文学として書かれていなかったら、この人生の人間性、情の力や美の錯綜はどうして今日だけの蓄積として人間の歴史につたえられるでしょう。そして、私たちはまだ実に実に少ししか書いていない。そう思うと勿体ない。歴史に新しく加えるべきものは本当に多いのに。
この頃は急に空気が乾きはじめて、皆喉がカラカラして、鼻の奥がかわいて苦しいが、ずっと大丈夫でいらっしゃるでしょうか。私は夜中、急に喉がいりつくようで目をさますことがある。
昨夜は『中公』の随筆を十枚かいて(くちなし)、これから例の私の荷物である今日の文学のつづきをかきます。今、能動精神の文学の声がおこったところです。フランスのそういう時代のもっているものと、こっちのとを比べてなかなか意味深い。この仕事は十三四日に終らねばなりません。
全く今年は沢山仕事をした。最も活動したものの一人です。しかし、今年の仕事ぶりは忘れることが出来なかろうと思う。歯をくいしばってやったところがあって。
このごろは心にくつろぎが出来て、瑞々《みずみず》して、何しろ私のこれまでの一生に只一度もつけたことのない題をつける位ですから。来年はいろいろ仕事を整理して、評論風なものでは一つまとまって七八十枚のものを、あとは小説という風にやりたい。そして、いかにもそれがやれそうな気持です。芸術というものは一面刻薄であって、こっちが一生懸命でも心のゆとりなさなどは何か一つのマイナスとなって作品に出る、なかなかくやしいようなものです。オペラの唱い手曰ク、最も悲しいうたを最も悲しくうたえるときは、自分が一番丈夫で幸福な時だ、と。これは勿論そのままではないし、そうだとしたら、今日芸術の仕事を何人がやり得るかと言いたいところですが、それでも、今の心の状態の方が私としてよい。来年は質の更によい仕事をします。今年の暮、私はいそがしい仕事が終ったら出かけて行って、一組のおとそ[#「おとそ」に傍点]の道具を買うつもりです。或暮に、私はショールを巻きつけておとそ[#「おとそ」に傍点]の道具を買いに出かけ、いろいろ見て或ものは手に迄とって将《まさ》に買おうとしたが、どうしても心に買わせぬものがあって遂に買わず、複雑不思議な思いに深く沈んでかえったことがあった。
今年は、それを買います。そして、それを買うことが実にたのしみで、うれしい。新しいおとその道具からあなたに注ぎ、私につぎ、そして親しい大事な友達に注ぐ。
漱石の金剛草の話、私もその本はやはり面白く同様の印象でよみました。漱石の文学論、十七世紀英文学史、いずれも大事な只一つの鍵をおとしているだけ、そのことが今日明瞭に分るだけ、しっかりとしたもので面白い。英文学史なんか、ああ漱石が只もう二箇の「何故《ホワイ》?」を発してこの分析を深め得たら、と痛感した。狭いところにいて読んで。文学論にしろ、堅固周密な円形城壁のようだが、真中がスポンとぬけていて。すべての分析がそれぞれの線の上でだけ延ばされているから、簇生《そうせい》していて相互関係の動きと根本に統一がない。あなたのおっしゃるとおりの原因なことは明かです。
あなたの時計は直って来て、この机の上にあります。金時計というのは、私は全く見なかった。賄のこと、まことに残念ですがまだ分りません。きょう島田からお手紙で、お金がつき、大変よろこんで下さり、よかったと思います。達治さん達も一層本気で働く気分を励まされていると仰云っています。よかったわね。光井の方へは、この暮は、冨美ちゃんへの本(『小公子』やその他)と何かお送りして、お金は来年三月です。
あなたの腹巻きも、栄さんと新工夫したのをもうじきあめてお送り下さる由。今度のはきっとなさりよいでしょう。
本月六日に、曾禰達蔵博士が八十六歳で急逝されました。私はお祖父さんに死なれたようで、その夜お挨拶に行ってお姿を見たら大変涙がこぼれました。この方の生涯のこまかいことは知らないが、長州萩の人の由。漢詩などをやる(文学のことでしょう)のが好きであったが、家が貧しくて給費生となるには当時(明治以前)工学でなければ駄目だった。それで工学をやるようになった、と述懐された由、長男は理学博士で物理です。お前は其故好きな勉強をしろといわれた由。
事務所は十一月中に第二段の縮少をして、一月からは名儀も国男一人のものとなり、老人は隠退されることになっていました。国男もこれからは全く独力です。今の情況ですから建築は一般に困難です。
明日ごろ、可笑しい虎の絵の手拭を送ります。色のついた虎、虎年ですから。壁の比較的よい装飾になりますから、お正月には古いのとかえておつかい下さい。タオルねまき、初めは幅がひろくすぎるかもしれませんが、こんどは洗ってもちぢまりません。普通に召せるでしょう。
では猶々お大事に。この手紙は下旬につくのでしょうね。私はもう四五日のうちにお目にかかりにゆきますが、二十日すぎてから着くかと思うと何か一寸した言葉があげたい。一寸、胸のところに吊っておくような。
many many good wishes という云いかたは、謂わば暖い掌で背中や肩を親しくたたくような表情ですね。では又。
十二月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十二月二十五日夕方。第四十四信
十二月十五日づけのお手紙ありがとう。それについてはかくとして、とにかくこの手紙がそちらに届くのは正月に入ってからでしょうね。そうすると正月の第一のたよりになるわけですね。新春の挨拶というものには早いけれども、でも今年は、この間のうちの手紙で私が書いていたとおり私たちに歳暮も早く、したがって新年も早く来たような心持です。だから、時間をとび越して、この手紙の中でいろいろと新しい一年に対して予想する感情でいうことは自然です。
一九三八年という年は、どのような内容で過されるでしょう。時節柄、「天気晴朗なれど」であろうと思われる。私は自分の仕事についてこの間書いたように本年よく勉強したことと、あなたの命がとりとまったらしいこととで、はっきり一つの成熟の感じがしてこの年こそゆっくりと心の満足するような書きぶりでやりたいという希望に満ちていたのです。勿論、それがそうゆけばこれにこしたことはない。でも、そうゆかなかったとして、作家としての生き方の本然性が失われるのではないから、それなら又私らしくいろいろと勤勉に収穫をもってやってゆこうとも考えて居ります。そういう点ではやはり日々是好日たらしめ得るわけです。
どっちにしろ、あなたが健康の平衡を保っていて下さることは何よりうれしい。何よりの安心。精神上の苦痛というものも様々で、私は世俗的な意味で苦労性ではないのだけれど、苦しいということは、私の場合では自分の体より寧ろそちらの体についての場合につよく感じられます。あなたの着実な健康増進のための努力には、私は全幅の信頼をもっているから、出た結果はどうであろうとも、あなたに対しての私の苦情というものはないわけです。どうか今年は熱を出したくないものですね。
おかゆの境地を脱したら実に実にしめたものです。こんなにやいやいいう体面上、私も気をつけ最上の健康を気をつけますから御安心下さい。私の盲腸も妙な奴で、曲者です、ただものでない。可笑しいわね。まア、適当にあつかって居ります。
ところで、どてらお気に入りました? 今、もう押し迫って縫って貰えないので出来ているのを買って背中へだけポンポコ真綿を足したのです。エリは大変柔和でしょう? 顎や頬にやさしく当るでしょう? きっとあなたはもっともっとふくらんだのを欲しくお思いだろうと察しているのですが、どうか辛抱して下さい。あれでも普通よりは厚い分なのですから。
もう一枚の綿入羽織は一月中旬にしかお送り出来ません。これもあしからず
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