。同志今野が、どうも頭は痛くなって来たし変だと思い、苦痛を訴えたら、済生会の軍医は、却ってこれまで一日おきに通っていたのに、もう大分いいから四五日おきに来いと云った。どういうことかと思っているとそれから三日目に極めて悪性の乳嘴《にゅうし》突起炎を起し、脳膜炎を併発し、今度は慶応病院に入院、大手術をした。危篤状態で一ヵ月経ち、命だけをやっととりとめた。)
二
「――ソラ見えるだろうが」
「見えやしませんよ」
桜のことを云っているのである。警察署の裏、北向きの留置場では花時でも薄暗く、演武場の竹刀の音、すぐ横の石炭置場の奥にある犬小舎でキャン、キャンけたたましく啼き立てる野犬の声などがする。
南京虫が出て、おちおち眠られない。
「夏になったらそれこそえらいもんだ。去年ここのところへ」
と、腐れ布団の入っている戸棚わきの柱のわれ目を叩きながら看守が云った。
「イマズをまいたら一どきに八十匹ばし出た」
花曇りの期節が終ると、いつとなし日光の強さがちがって来て、日がのびた。第一房の金網ばりの高窓からチョッピリ三角形に見える青空と、どこかの家の黄色っぽいペンキを塗ったトタ
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