比べて、リベディンスキーの『一週間』の人物はどうかよ! 例えば、リザ・グラチェヴァ――なんと変った人物ではねえか? それでいて、いつだってほんとに生きてるようだ」
ザイツェフは、村へ襲って来たカラシュークが真先に共産党員を狩立てずに、馬の尻尾へ富農を結びつけたのも不自然だと主張している。
「こりゃ、拵え事だ。作者はきっと富農《クラーク》を皮肉ってやりたかったんだべえが、うまく行かなかったネ。俺にゃ、それに何故チュフリャノフが共産党反対の組織へ加わるのを拒絶したかも分らん。チュフリャノフは二心のある奴って訳だべか――そうも思われない。富農の奴が詩篇を読む――そんなことがあるかね! ところがパンフョーロフの小説じゃ、読むこと、読むこと、まるで何かの書付け読むように読みくさる。マルケル・ブイコフが『憲法』って言葉をつかう。ズブの無学文盲の農民は、この作者が喋らしているような喋りかたはしねえもんだ。『神聖な処女の噺』は、ありゃ新聞からとって来たもんだね。俺等の村じゃああいう、『神聖なもの』はどんな馬鹿な奴だって引きつけやしねえ」
この農民批評家はなかなか手厳しい。ザイツェフは、繰返し繰返し
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