のなかでは、文学の本質がわかっている文学者として自身をあらわそうとしている。そのために、こんにちの文学の現象はいっそう混乱して、商業ジャーナリズムの大半を占め、紙数をより多く占めて発言している中間作家、風俗作家の文学論が、さながら文学論であるかのようにあらわれている。
私小説を否定しながら、純文学[#「純文学」に傍点]を語るこれらの人々は、広津和郎の「ひさとその女友達」に対する林房雄の評を見てもわかるように、政治臭[#「政治臭」に傍点]をきらうことで共通している。中間小説が、社会小説であり得ないこの派の作家たちの本質に立って。
しかしながら、そのまた他の一面ではファシズムに反対し、戦争挑発をしりぞけるための「知識人の会」に名をつらね、作家そのものの道に立って平和を守ろうとする川端康成の提案を支持してもいるのである。
高見順との対談で丸山真男が「物質的な面ではそうですけれども(文士も偉くなった)社会的な価値とか、役割とかではやはりアウト・ロウ的でしょう」と云い、高見順がそれを肯定して「全然アウト・ロウです」と答えているのは、高見順にとっては自然な答えであったにしろ、中間小説作家たち
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