の現実でもないし、実感でもないだろう。社会性を失った「純文学」とよばれる創作方法に対して、林房雄、富田常雄を筆頭とする中間小説の作家たちは、「純文学とか大衆文学とかいう色わけがなくなってしまうのが当然」であるとして、現在自分たちの書いている文学が「大衆の生活にたのしみを与え、豊かにし、また生きてゆく上でのなにか精神のよりどころのようなものを提供するこそ」目標であり「『罪と罰』『ボ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァリー夫人』『女の一生』『凱旋門』に通じる道がひらけるにちがいないと確信する」人々である。これらの人々に新聞社は、講和問題に関するアンケートなどもおくっている。『読売新聞』の集めた範囲で作家たちの答えは全面講和の要求だった。
 批評家は、一九四九年のこの錯雑混沌とした文学と文学者のありように対して、どうして、ただ押しまくられているしかなかったのだろうか。「また、いつかはそれをやりとげないでは(「罪と罰」やその他の作品に通じる道がひらける、ということ)結局、羊頭をかかげて狗肉を売るそしりをまぬかれないだろう」(文芸家協会編『現代小説代表選集』第五――田村泰次郎)というのなら、
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