所を教えてくれてもない。スーラーブは、父の名を知らなかった時、それさえ解ったら、どんなにさっぱり、心強いことだろうと思い込んでいた。ところが、事実は、正反対になった。まるで想像も、しなかった辛さが心に生れた。それは、偉大な戦士としての父に対する限りない尊敬、愛、帰服の心とともに、ここに切りはなされてぽっつり生きなければならない自身を、ひどく詰らなく、無意味に感じるという苦しさなのである。スーラーブは、昨日迄の生活を、無意義極まるものとして、考えずにはいられなかった。若し、何かの見どころがあれば、それは、ただ今後の生れ更った自分の生活に何かの足しになるものであったという理由にすぎない。彼の若々しい熱意や、憧憬に燃る心は、あのルスタムを父と知ってから、再び、元の眠ったような生活には思っただけでも堪えなかった。どうかして、ルスタムの子にふさわしい生き方がしたい。父と倶にあれば、たとい自分が末の末の数ならない一人の息子であったとしても、前途には、もっと希望と、男に生れた甲斐のある約束があった筈だ。
 現在のままの境遇では、父に会うという一事さえ、容易に果せない。小さいツラン属領の城番で、獣しかいない山野に囲まれ、生活を変えるとしても、何の根拠によることが出来よう。スーラーブは、死んだ祖父や母に対し、始めて、不満と、絶望的な皮肉とを感じた。祖父が、習慣に背いて、自分を父の手に渡してくれなかった理由、下心が、賤しく考えられた。スーラーブは、眉を顰《ひそ》めて、目の下に見える、堅固な城の外廓と、二重の城門とを瞰下した。それ等は皆、祖父の代に、改築されたものであった。祖父は、あの厚い城壁と、要心のよい二重の扉で自分をこの中にとり籠めて置く積りだったのだろうか、または、小さな威厳という玩具を与えて、自分を一生、サアンガンの嬰児にして置こうとしたのだろうか。

        十二

 母が遂に、父の名を明かしたのは勿論、それを聞いたら自分が落付き、現在の生活に一層満足するだろうと思ってのことであるのは、スーラーブによくわかった。父との短い、思い出の深いだろう恋を考えれば、その心持にも同情されるものがある。
 然し、気の毒なことに、彼はもう自分が、彼女一人の、スーラーブではなくなったことを感じた。寧ろ女らしい姑息さで、自分を動く、大きな運命の輪から引きはなしてくれたことで、却って、自分の本性というものからは遠い、無縁なものであることが明らかになったような形さえある。
 考えれば、祖父は勿論、母も、彼等自身の満足の方便として、自分を自由にした。ちっとも、自分の希いは思ってくれなかった。最も近いそれらのひとびとから、政治的に何ぞというと掣肘《せいちゅう》を加えずに置かない冷血な、蒼白いアフラシャブに至る迄、今のスーラーブには一人として、心の通じ合う、誠を以て尽し合う者はなく感じられた。
 ただ、ルスタム、父。その繞りだけは生命がある。真心と自分を牽く光明とがある。けれども、何か異常なことが起り、周囲の絆を断ち切って、真直自分がイランに飛んで行けない限り、その退屈な、石塊のような、生活を続けなければならないのだ。
 スーラーブは、太い、激しい息をつき、今、ここから、そのまま双手を翼に変えて、翔び立ってしまいたく思った。時が来る迄に、無意味な日々が、いつとはなく自分の筋骨を鈍らせ、衰えさせてしまいはしまいかと考えると、ぞっとする懼れが心を噛んだ。
 万一、機会が来る迄に、もう老年に達したに違いない、父が死ぬことがありはしまいかと思うと、スーラーブは、無言に、辷り、移ろう日かげを掴み、引止めて置きたいほど不安になった。
 スーラーブは、広い空の裡に、ただ自分と父だけの命を感じた。見えない、ずっと遠い彼方の端に父はいる。此方の端に自分がいる。父の熾な、雄々しい気勢を自分は夜明けに何より速く暁の光を感じる雲のように感じている。けれども、父の方は、自分がどんな感激に震え、待望に息をのんでいるか、まるで知らない。声もかけ得ず、面も合せ得ないうちに、老た太陽は、堂々と、天地を紅に染めて地の下にかくれてしまうかもしれない。雲には、明日という、大きな約束がある。けれども自分には何があるだろう? 月ならば、沈んだ日の照り返しで、あんなに耀くことも出来る。自分は、奇妙な因縁で、地に堕ちた月だ。未だ成り出でない星ともいえる。日の余光は強くあっても、自分には、大らかに空を運行して、その輝きを受くるだけの、あの宇宙を充す不思議な生き方の力の分け前を得ていないのだ。
 冷やかな石の欄に頭をつけていたスーラーブは、ふと、何処かに人の跫音をききつけた。
 彼は、思わずきっと頭をもたげ、耳を※[#「奇+攴」、第4水準2−13−65、351−7]《そばだ》てた。四辺のひっそりとした静けさを
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