古き小画
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)四辺《あたり》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)二三度|霰《あられ》がすぎてから
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)鐃※[#「金+(祓−示)」、第3水準1−93−6、345−9]《にょうはち》
−−
一
スーラーブは、身に迫るような四辺《あたり》の沈黙に堪えられなくなって来た。
彼は、純白の纏布《ターバン》を巻いた額をあげ、苦しそうにぎらつく眼で、母を見た。
彼女は、向い側で、大きな坐褥の上に坐っている。その深い感動に圧せられたようにうなだれている姿も、遠くから差し込む日光を斜に照り返している背後の灰色の壁もすべてが、異様な緊張の前に息をつめ、見えない眼をみはっているように感じられる。
スーラーブの、過敏になった神経は、それらのものから、異常な刺戟を受けた。部屋じゅうには、何か窮屈な、身動きも出来ない霊どもが一杯になって、切に、彼からの一言、快適な一つの動作を、待ち、望んでいるように思われる。
実際、スーラーブは、この場合、自然な自分の数語、一挙手が、どんなに内房《アンダルーン》の空気を和げ、くつろがせるか、よくわかっていた。けれども、平常、あれ程自由に使われると思った言葉が、彼の頭から消えてしまった。実につきない余韻を以て鳴り響くようなこの感動を声に出して表わそうとすれば、意味をなさない、一息の、長い唸りでも響かせるしかないのだ。
強て、何とかしようとする焦心は、一層、スーラーブの感情を苦しくした。
彼は、いたたまれない様子で、いきなり立ち上った。そして、真直に母の前を横切り、内房に属する柱廊に出た。
そこには、日増しに暖くなって来た四月のツランの日光が、底に快よく肌を引しめる雪解の冷気を漂わせながら、麗らかに輝いている。スーラーブは、思わず貪るように新鮮な外気を吸い込んだ。そして不思議に混乱した力を、再び集めとり戻そうとするように、立ち止まって、拳を一二度握りしめ、開きし、のろい歩調で、柱廊の端迄出て行った。
粗い、自然石を畳みあげた拱《アーチ》の中からは、一目に城内の光景が見晴らせた。
つい傍に迫っている建物の翼のはずれでは、六七人の男が坐り、白い纏布をうつむけ、調子よく体を動かしては、武器の手入れや、新しい弦の張工合をすかして見ている。
遠く家畜小屋の附近では、活溌な猟犬の吠え声が聞えた。強い羽ばたきの音を立てて、ぱっと何処かの軒から鳩が翔《と》び立つ。
不規則な点滴の音や、溶け始めた泥濘に滲みながら鋭く日に燦《かがや》く残雪の色などは、皆、軟かな雲一つない青空の円天井に吸い込まれ、また軈《やが》て、滋味に富んだ陽春の光線となって、天からふりそそいで来るかと思われる。
然し、スーラーブは、その晴やかな外景を、至極、恬淡《てんたん》な、放心した状態でながめた。
黙って働いている人間の姿も、陽炎《かげろう》でちらつく広場の様子も、何かひどく自分とは無関係な、よそよそしいものに感じられる。
一心籠めて考えなければならないことがある。――しかも、その考えなければならないのは何なのか、はっきり当がつかず、徒らに不安を感じるという、落付かない心持になるのだ。スーラーブは、やや暫く、歩廊の石畳の上を、往ったり来たりしたが、気を鎮めるに何のかいもないと知ると、歩をかえして、内房を出た。スーラーブは十九年の間隠されていた父の名を知ることが、これ程の動顛を齎すものとは知らなかった。
二
ツランでは、男の子が生れると満七歳になる迄、母の内房でばかり育てられることになっている。スーラーブも、七度目の祝の日が来る迄、自分の囲りに、女ばかりを見て育った。大きくなってからでも、彼は、よくその時代の追憶を、朦朧《もうろう》と、一種神秘的な色彩を添て思い出した。今見る内房とは、まるで違うように思われる、少し薄暗い、静かな、好い匂いの漂っていた奥の部屋。朝から晩まで、その中で、小さい自分の相手になって、玉を転したり、笑ったり、時には腹を擽ったりした、白い手の、大きい金の耳輪を下げた、母とは違う若い女房の、悠《ゆっ》くりした腰袴の裾につらまって、始めて、歩廊の淡雪を踏んだときの驚き。
七年目の誕生日が来た朝、スーラーブは、初めて青々と剃った小さい頭に、赤い条入りの絹の纏布を巻きつけられた。そして、腰に宝石入の幅狭帯と、短剣とを吊った。
仕度が調うと、内房じゅうの女が一人一人彼に祝福を与え、内房の外仕切りの垂帳の処まで送って出た。外には、男の家臣が、迎えに来ている。スーラ
次へ
全36ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング