ーブは、大きな大人が、こごみかかって自分に捧げる歓迎の言葉に、赤くなり、嬉しさと当惑とを半々に感じた。それでも、小さい足に力を入れて、先に立ち、勢いよく、別棟の、男の、住居に入って行った。
 その日から、彼は祖父の保護の下に置かれることになった。今迄のように、内房の嬰児ではなく、サアンガンの統治者となるべき少年としての訓練が始まった。スーラーブは、祖父の居室の一隅に積み重ねてある坐褥の上に眠った。空が明るくなると同時に起き出して、白髭の祖父と並び、天と地とを照し、正義ある王を守る太陽に礼拝することと、その時称うべき祈祷の文句を教わる。
 少量の朝餐が済むと、日が山陰に沈む迄、彼は、戸外で暮した。祖父か、或は他の臣と共に馬に騎《の》り、狩に出かけ、何もない野原で食物を煮る火を作ることから、馬の傷の手当をすること、獲った動物の皮を剥ぐことまで――一人の勇ましいツランの戦士が知らなければならない総てのことを、男らしい、実際の場合に即したやり方で、教え込まれるのであった。活々した冒険心に富んだスーラーブの少年期は、極く愉快に三年経った。彼は十歳になった。その年、厳しい冬の間から祖父が内臓の苦痛を訴え始めた。そして、脾腹《ひばら》が痛むと云って飲食も不可能になると、間もなく、老人は瀕死の重体になった。
 煎薬のにおいや、悪魔払いの薫物の香が、長い病人の臥床につき纏《まと》う、陰気な、重苦しい空気と混って、まだ寒い広間の中に漂っている。スーラーブは、明りの差し込む窓の下で侍者と一緒に、ぼんやり湯の沸くのを待っていた。
 天井から吊った懸布の下の床では何か不具の重い虫でも飛ぶような息の音を静寂な四辺に響かせながら病人が家臣の一人と話している。スーラーブは、侘しい退屈な心持で、そのゼーゼーいう音をきき、雪の上をちょいちょい歩く二三羽の鶫《つぐみ》を看ていた。
 誰かが後向になった彼の肩に触った。見ると今迄祖父と話していた男が、
「祖父様がお呼びになります」
と、立っている。スーラーブは、その男の顔と、病人の方とを、一寸見較べた。
 彼は、進まない心持で歩き出した。病人になってから祖父は、幼い彼に何処となく見違えるこわさを持っている。

        三

 床の傍まで来ると、スーラーブは、恭しく右手を胸に当てて頭を下げた。そして、張り切った子供の注意で凝っと祖父の顔を見下した。老人は、急に沢山になった藪のような白髭と白眉毛の間に、弾力のない黄色い皮膚をのぞかせ一言を云おうとする前に、幾度も幾度も、あぶあぶと唇を動かす。唇に色がなく、口を開けると暗い坑のように見えるのが、スーラーブに無気味に感じられた。
 付添っていた家臣が、背に手を当てて、彼を病人の顔に近く、かがませた。スーラーブは、我知らず、自分の顔が、異様な祖父の顔にくっつくのを恐れ、頭を持ち上げた。
 祖父は、なお暫く息を吸ってから、やっと聴こえる声で、
「スーラーブ!」
と、彼の名を呼んだ。弱々しい切なげな声が恐ろしい容貌を忘れて馴れた祖父を思い出させ、スーラーブは、俄に喉がぐっとなるのを覚えた。彼は、熱心に次の言葉を待って息を抑えた。
「儂はもう駄目だ。卿と狩にも行けぬし……」
 祖父は言葉を選んでいるように躊躇し、つづけた。「いろいろ教えてやることも出来ん。シャラフシャーの云うことをきけ。シャラフシャーが、儂の役を引受けた。」スーラーブは自分の傍に立っている家臣を見た。何か不満足な、意に満たない感じが彼の胸に湧いた。けれども物々しいその場の有様が、彼に沈黙を守らせた。
「シャラフシャーは間違ったことは云わぬ。サアンガンの恥になることはせぬ。よく云うことをきけよ」
 祖父は、草臥《くたび》れるほど長いことかかって、これだけを云うと、枯れた小枝を継ぎ合せたような手を延して、枕の上を探るようにした。
 シャラフシャーがこごんで、何か訊き、頷くのを待って、積んだ枕の下から、羊皮の小さい袋を出した。そして、それを病人の手に渡した。
 厳粛な四辺の雰囲気の裡にもスーラーブは、激しい好奇心を、その小袋に対して感じた。祖父は大切そうにそれをあげ、額につけ、スーラーブに向って合図をした。スーラーブは、シャラフシャーに云われるままに、祖父の方に右手を出した。祖父は、ぶるぶる震える手でその小袋を彼の掌に置くとそのまま確かり自分の手で外から握らせ、
「儂の守りを遣る。儂は、父上が死なれる時その臨終の手から貰った。サアンガンの幸運が卿と卿の子孫とに恵まれることを」今迄薄すりと眼を瞑り、唇だけ動かしていた祖父は、この時急に、生きている勢いの全部をその刹那に込めるように、ぱっと双眼を開いた。
 そして、スーラーブの、切れの長い、真面目な眼を射抜くように見据えながら、はっきり、
「父のない子を見よ、と云われる
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