踏みしめるように、石階を登って来る。スーラーブの、藪かげに獣の気勢をききつけた敏い耳は、それがフェルトの長靴を穿いた足で、丹念に一段、一段と登る一方が軽く跛《びっこ》を引くのまできき分けた。
 歩き癖で、来たのは誰だかわかると、スーラーブは、腰架の上で居ずまいをなおし、左手の掌で徐に自分の顔を撫でた。

        十三

 スーラーブは、何気なく頬杖をついて、空を眺めていた。窮屈な階段を昇り切ったシャラフシャーの暗い眼にぱっと漲る日光とともに、彼の薄茶色の寛衣を纏った肩つきが、くっきり、遠景の大空を画《くぎ》って写った。
 シャラフシャーは、上体をのばすようにソリ反り、凝っとスーラーブの後姿を見、大股な、暖か味のある足どりで近づいた。
「我君!」
 スーラーブは、始めて気がついたように、シャラフシャーを振向いた。そして幾分、不機嫌に、
「何だ!」
と云った。が彼は、妙な子供らしい間の悪い感情から、真直にシャラフシャーの眼を見られず、さも大切なものが浮いてでもいるように、空の方を横目で見た。
「昨日申上た宝石売が、はや、参りました」
 スーラーブは、この親切な、父代りに自分を育てた老人がほんとに云いたいのは、宝石売のことなどではないのを知っていた。彼は「どうなされた、さあ、気を引立てて」と、囁かれるのを感じた。宝石売などは、自分を滅入らせる一方の独居から引出そうとする口実にすぎない。スーラーブはその心をなつかしく感じた。彼は、
「行って会おう」
と云わずにはいられなかった。
「先刻食物を与え、休息させてございます」
「…………」
 スーラーブは立上った。そして何処となく乾いた樫の葉と獣皮との匂が、混って漂っているようなシャラフシャーの身辺近く向き変る拍子に、彼は、自分の心にかかっている総てのことを、あらいざらい云ってしまいたいような、突然の慾望に駆られた。
 スーラーブは、我知らず、シャラフシャーの、厚い、稍前屈みになった肩に手をかけた。が、何とも云えない羞しさが、彼の口を緘《とざ》した。自分とひとの耳に聞える声に出して「ルスタム」と云うことすら、容易なことではなく感じられる。階段の降り口に来ると、スーラーブはそのまま黙ってシャラフシャーの肩から手を離し、先に立って段々を降りた。
 宝石売の男は、広間の隅に、脚を組んで坐っていた。向い側の垂帳が動き、スーラーブと他の三四人の姿が見えると、彼は、慌しく坐りなおし、額と両掌とを床にすりつけて跪拝した。スーラーブは、拡げられた敷物の上に坐った。坐が定まると、宝石売の男は、黒い釣り上った胡桃形の眼を素ばしこく動かし、スーラーブの顔色を窺《うかが》い窺い、仰々しく感謝の辞を述べた。そして、卑下したり、自分から褒めあげたりしながら、荷嚢から、幾個《いくつ》もの小袋を引出し、特別に調えた天鵞絨《ビロード》の布の上に、種々の宝石を並べた。それを引きながら、スーラーブの前に近く躪《にじ》りより、下から顔を覗き、身振をし、宝石の麗わしさ、珍らしさなどを説明する。
 スーラーブは、寧ろうるさく、速口の説明をきき流した。けれども、流石《さすが》に、宝石の美しさは、彼を歓ばせた。
 小柄な黒い眼の男が、器用にちょいと拇指と人さし指との先につまんで、日光に透し、キラキラと燦めかせる紅玉や緑玉石、大粒な黄玉などは、囲りの建物の粗い石の柱、重い迫持と対照し、一層華やかに生命をもち、愛らしく見える。母のためにと思って、スーラーブが蕃紅花《サフラン》色の水晶に目をつけると、商人は、いそいで別な袋の底をさぐり、特別丁寧に、羊の毛でくるんだ一粒の玉を出した。

        十四

 彼は、ありもしない塵を熱心に宝石の面からふき払うと、それをスーラーブの眼の前につきつけた。
「如何でございます。これこそ、若い、勲《いさおし》のお高い君様になくてはならない、という飾りでございましょう。御覧なさいませ。ただ一色に光るだけなら、間抜けな奴隷女の頸飾でもする芸です。ほら」
 商人はうまく光線を受けて、虫の卵ほどの宝石をきらりと、燐光のような焔色に閃かせた。そのまま一寸光の受け工合を更えると、玉は、六月の野のように、燃る肉色や濃淡の緑、溶けるような空色、深い碧をたたえて色種々に煌《かがや》く。
「この一粒が、百の、紅玉、緑石に当ります。イランの王は、この素晴らしい尊さの代りに、失礼ながら私共の嚢の中では屑同様な縞瑪瑙《しまめのう》に、胎み羊二十匹、お払いなされました」
 彼は、狡く瞼も引下げ、悪口でスーラーブに阿諛《あゆ》した。シャラフシャーに、珍らしい蛋白石を手渡していたスーラーブは、その言葉で、俄に心が眼醒めたようになった。彼は思わず男の顔を見なおし、唾をのんだ。そして調子を変えまいと思って、却って不自然な、低い物懶
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