ーブを匿《かく》まった。無邪気な唇が、どんな大事を洩すまいものでもないと、彼にさえ、父の「チ」の字も云わなかったことをスーラーブは始めて知ったのであった。

        十

 話し終ると、ターミナは、殆ど祈願するように云った。
「それで卿がルスタム殿の息であるのを知っているのは、この世の中で、私と、卿と、二人になりました。どうぞ今迄の心遣いと、尊い血とを無駄にはして下さるな。サアンガンの王の王を作ろうという希いは、サアンガンの女が持つことを許された最大の祈りです」
 彼女は、深い吐息をつき、後の坐褥にもたれかかった。
「ルスタム殿を父に持ったとわかったら、卿も母を恨んではくれまい。――あれほどの夫を持ちながら、永い一生にただ一度、会ったばかりで死ななければならない私が、卿をミスラの子だと云う心持は……嘘や偽りではありません」
 スーラーブは、期待した朗かな喜びの代りに、何とも知れぬ圧迫を心に感じるのに驚いた。彼は当途のない亢奮に苦しみ、馬に騎って、野外に出た。
 スーラーブは、暗くなる迄春の浅い山峡を駆けめぐり、細い月をいただいて、黒い城門をくぐった。
 翌朝、スーラーブはだんだん深い水底からでも浮上って来るような、憂鬱な気持で目を醒した。彼は、枕に頭をつけたまま瞳を動かして四辺を見た。馬毛織の懸布や、研いだ武器が、いつも見なれた場所に、見なれた姿でかかっているのが、妙に物足りなく寥しい心持を起させる。
 疲れていたので、幾時間かぐっすり眠ったのに、目が覚めて見ると何処にも熟睡で心を癒やされた爽やかさがなく、依然として、昨日と今日とは、きっちり、動きのとれないかたさで心持の上に結びついている。
 僅の間でも眠れたのが却て不思議な心持さえする。珍らしく、スーラーブは、目を醒してから後暫く床の上に横わったまま、まじまじと朝日の輝く室内の有様を眺め、やがて真面目すぎる眼つきで褥《しとね》を離れた。侍僕が、気勢をききつけ水と盤とを持って入って来た。
 手と顔とを浄め食事に向うと、シャラフシャーが入って来た。彼はスーラーブと向い合う敷物の上に坐り、種々な業務の打合せをする今朝、スーラーブは、まるで心が内に捕われた、無頓着な風で、シャラフシャーが述べる馬の毛刈りについて聞いた。彼は、もうそろそろ馬の毛刈りをせずばなるまいが、もう二三度|霰《あられ》がすぎてからがよかろうと云うのである。スーラーブは、結局、どちらでもよいのだという風に、
「よしよし、それで結構だ」
と云った。そして、ろくに手をつけない食膳を押しやって立ち上った。
「今日は、少し用事があるから、皆には卿の指図でよろしくやって貰おう」
 彼は、数間内房に行く方角に向って歩き出した。が急に気をかえたらしく、シャラフシャーを顧た。
「面倒でも、卿に今日は内房に行って貰おう。シャラフシャー、私は疲れているので御挨拶に出ませんと、伝えてくれ」
 シャラフシャーが立ち去ると、スーラーブは、居心地よい落付き場所をさがすように、ぶらぶら室じゅうを歩き廻った。
 けれども、いつ外から挙げられまいものでもない彼方此方の垂幕が気分を落付かせない。遂に、彼は、城の望楼を思いついた。あそこなら誰も、丁寧な無遠慮で自分を妨げる者はないだろう。

        十一

 稍々疲れを感じるほど、長い、薄暗い、螺旋形の石階を登り切るとスーラーブは、一時に眩ゆい日光の海と、流れる空気との中に出た。ここは、まるで別世界のようだ。音もせず、空に近く明るい清水のような空気に包まれて、狭い観台の上では、人間が、天に投げられた一つの羽虫のように、小さく、澄んで感じられる。スーラーブは、始めて吸うべき息のある処に来たように、心から、深い息を吸い込んだ。そして、胸墻《きょうしょう》の下に取つけた石の、浅い腰架に腰を卸した。下を瞰下《みおろ》すと、遙に小さく、城外の村落を貫き流れる小川や、散らばった粘土の家の平屋根、蟻のように動く人間や驢馬《ろば》の列が見える小川の辺りでは、女が洗いものでもしているのか、芽立った柳の下で、燦く水の光が、スーラーブの瞳に迄届いた。遠く前面を見渡すと、緩やかな起伏を持った丘陵は、水気ゆたかな春先の灌木に覆われ薄|臙脂《えんじ》色に見える。その先の古い森林は、威厳のある黝緑《ゆうりょく》色の大旗を拡げ立てたように。最後に、雪をいただいた国境の山々が、日光を反射し、気高い、透明な、天に向っての飾りもののように、澄んだ青空に聳え立っている。
 肱をつき濁りない自然に包まれているうちに、スーラーブの心は、白雲のように、音もなく、国境の山並の彼方に流れた。そして茫漠としたイランの空の上で、降り場所を求めるように円を描いて舞う。けれども、彼の心を、地上から呼びかけて招いてくれるものもなければ、落付き場
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