という角度から観られてよいと思う。なぜなら、この一つの事実の中にも、現代文学に要求されているのは、社会性であるという確実な証拠があらわれているからである。
 三好十郎の毒舌が呟きに終り、中野好夫が沈黙するのも、現在より多く否定的な文学現象でしかあらわされていない文学の動きの中にさえ、明日の文学がよりひろい社会的実在として展開することを期待する心が働いているからである。
 民主主義文学の運動が、この四年間の活動にもかかわらず、こんにち、現代文学全般のこの危期に、必要なだけ積極的影響をもち得ないでいるということが許されるだろうか。
 一九四七年・八年・九年と、新日本文学会の批評活動は、表面からみるとたしかに下り坂を辿った。民主的な文学運動と互にかかわりあうものとして現代文学の全野に亙って作品を評価し、文学現象をしらべ系統的発展のために発言する能力は、すくなかった。けれども、これは、あながち新日本文学会の批評家・評論家が全く無力であったということにはならない。
 一九四六・七年には日本の民主革命の目標がやや曖昧に示されていた。したがって、民主的文学の成長をたすけるために主導力たる階級の文学を
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