の批評家・作家・読者は過去の私小説とその手法では再現されきれない社会の現実とその心理があることをいら立たしく意識しているのに――肉体派小説、中間小説の商品性に対してはおのずから批判が感じられているのに――さて、それならば爪先をそろえて颯爽と、どのようなより社会的な創作の方向に進んでゆくかとなると、三好十郎のところでも、伊藤整のところでも、自身の文学の課題として解決が見出されていない。したがって、批評家である中野好夫の足も、私小説とその方法の否定という線であしぶみをくりかえすことになっているからであった。
現代文学における各作家の社会認識或は社会感覚と各自の創作方法との間には、おおいがたいギャップがある。その歴史的な亀裂の間から、肉体派小説論、中間派小説論が日本小説のフィクション性を主張して湧き出たが、その文学の空虚な実体があきられて、記録文学の流行を導き出し、その目新しさも忽ち古びて現在では実名小説がはやりはじめた。その実名小説も多くは、高見順をして「これはなかなか死ねないぞ」と苦笑させるほどの人生的文学的程度である。
こんにち、文壇の作家たちが、めいめいの特色となっている角度やニ
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