に傍点]知識に煩わされて、その作者が誰の追随者であろうとも、作品の現実として現代の歴史の中に何を提出しているかという点が、力づよく見きわめられなかった。火野葦平の「悲しき兵隊」、林芙美子の「軍歌」をまともに分析検討しないなら、文学者の平和運動への協力は、どこに実感の真実性をもつだろう。佐多稲子の作品をかたるとき、批評は生活派らしい座りかたになり、地声となっているが、論点は作者と読者を肯かせるところまで掘り下げられていなかった。大岡昇平、火野、林などの作家にふれた前半と後半とはばらばらで、きょうの日本とその人民が歴史的におかれている大きい背景をもって諸作品が有機的に評価されるためには何かが足りなかった。
 創作の方法は、世界観から規定されると云われたのは一九三〇年代のはじまりからである。しかし、生活と文学との現実にあるこの逆の道行きについていつ語られただろう。すなわち、創作方法は、その作家が歴史をどう生きるかの課題であるから、ある人々にとっては、創作方法の真摯で客観的な追究を通じて、より社会的な世界観への戸口をひらかれる可能もある、ということについて。――
 現代文学がよりひろくつよい社
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