尾敏雄の「ちっぽけなアヴァンチュール」との対照、そこからひきおこされている批評の性格などがある。
批評の基準の確立ということは、一本の棒ですべての作品をくしざしにする意味でないことは、云うまでもない。民主的な文学運動の方向にたって現代文学の全野のできごとに――もとより作品にふれて、絶えず活溌な照明を働かせ、それぞれ異った作品と作品との間に発見される課題を、作家と読者との前にはっきり示して、それについて作家と読者とが、現代に生きるという角度から精神活動をいきいきと刺戟され、自発的な一歩の前進を誘われずにいないような仕事の基準のわけである。
民主的批評は、たしかに、新しくてしなやかに若い四肢をもとうとしている。多面的であろうとしている。しかし、それがたやすい仕事でないことは、たとえば『新日本文学』六月号瀬沼茂樹の作品評に示されていたと思う。瀬沼茂樹は去年の末、批評の無力論に抗して歴史の課題とてらしあわせて見る態度を失わなければ、錯雑した文学現象のうちに、おのずから見えて来るものはある筈だと語っている。しかし、六月号の批評では、大岡昇平がスタンダール研究者であるという文学的[#「文学的」
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