評家が、多くの人の、その気分とその気分を商品化する文学の枠の外から、太宰治という一人の人生と文学の悲劇らしいものを客観的に検討してゆく任務があるはずであった。しかも、発言をおさえる傾向が、民主的批評家はやっつけるだけ[#「やっつけるだけ」に傍点]、という風な自己評価から出発しているとすれば、批評家は、自分たちの批評の方法について、重大な省察と再検討をするべきであったと思う。だが、それはなされなかった。波は岩の上をザーと流れただけだった。
文壇的な評論家や批評家が、私小説とそのリアリズムを否定した先の創作の方法について、より社会的なひろがりにたつための具体的前進の道を示しかねていたこの年々、文学上のひろばである創作方法の研究は、民主的批評家たちによっても、決して十分鋤きかえされたとは云えない。プロレタリア文学運動は一九三二年ごろまでに、一応社会と文学、階級と文学、世界観と文学、文学の客観的評価の基準、文学の課題と創作方法などの関係について原則を見出した。その原則を原則なりに新しい文学の基礎認識として普及しようとしていた時代の社会科学的批評の方法を、一九四五年以後の民主的文学運動はどのよ
前へ
次へ
全21ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング