。現在では、すべての封建的な意図が、その表現はかならず日本の民主化と復興のため、といういいまわしをもちはじめた。
最近あらわれた元看守のファシストである暗殺者さえ、属する団体は民主化同盟という名をもっている。もういっそう手のこんでいる政治的な場面では、封建的というどんな表現さえもつかわずに、日本の封建性が旧勢力の利益のために最大限につかわれている。日本の独占資本家たちが、より強大な国際資本におんぶして大衆生活は二の次として生きのびる決心をしてから、それらの人々の近代化[#「近代化」に傍点]は急テンポにすすんだ。日本の港からあがって来た資本主義の独占的な本質にくっついて動くに必要な程度にまでいち早く自身の独占資本性を推進させた。この過程に、日本につよくのこっている封建性が十分利用されている。政治は政治家がやるものだというふるい考えかた、文化人は直接政治にはふれないという消極的な態度。それらは日本の社会の歴史のなかではどれも一種の封建性であるといえる。
利にさとい人々は、日本の文化性にあるこの不幸な沈黙とうけみの習慣をとらえて、この国会の会期中、どっさりの反民主的な法案を上程している。そのなかには当然言論出版の官僚統制をもたらす用紙割当事務庁法案があり、ラジオ法案がある。国会の人さえ知らないうちに用意されたこれらの法案は、形式上国会の屋根をくぐっただけで、事実上は官僚の手でこねあげられ、出来上った法律として権力をもってわたしたちの前に出されて来る。法律は政府がこしらえるもの、その政府はなお大きい力におされているもの、悲しくもあきらめて徳川時代の農民のように、その人々を養い利潤させる年貢ばかりをさし出して、茫然とことのなりゆきを見ているしか、わたしたちにすることはないわけだろうか。
日本の大衆は、イエスとノーとを明瞭につかいわけることを知らないということが、二年ほど前、多くの外国人から注目された。また、苦しいときでも、悲しいときでも日本人はあいまいな微笑を顔にうかべている。それはみんな意志表示の習慣をもっていないことを語る特徴だと指摘された。そして日本が民主的な社会となるためには、日本の男も女も、はっきりめいめいの意志と判断とにたってイエスかノーかを表現し、拒絶したいことは、あいまいに笑ってすぎないではっきり拒絶するようにならなければいけないと忠告された。
きょう
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