なければならないからとされている。
この処理費というものはどういう風にしてどこへつかわれるものなのだろう。戦時中の軍備施設を、二度とつかえないようにこわすだけに、そんな金がかかるのだろうか。ポツダム宣言を受諾して武装放棄をした日本は、どういう口実でも日本としてまた武装を行う理由はもっていないはずである。わたしたち日本の婦人の大部分は戦争を欲していないのだ。分別のある人民の大部分が、この上の惨禍を歓迎しようとはしていない。
きょうこそ、日本のわたしたちは、自分たちの求めているものを、はっきり自覚しなければならないと思う。わたしたちの求めているのが民族の平和と自立であり、生活の安定と人間らしい文化のよろこびである以上、自分たちの目標から目をはなさず、希望を実現させるあらゆる可能のためにわたしたちに出来るところから尽力してゆかなければうそだと思う。
これまで文化は、生活にゆとりのある階層の占有にまかされて来た。侵略戦争がはじめられて、それまでの平和と自由をのぞむ文化の本質が邪魔になりはじめたとき、谷川徹三氏の有名な文化平衡論が出た。日本に、少数の人の占有する高い文化があり、一方にいわゆる講談社文化がはびこっていることはまちがっている。文化は平衡をもたなければならない。おくれた低い文化はたかまり、狭い高い文化はもっと一般化されなければならないというのが谷川氏の論旨であった。ところが、当時の情報局文化統制は、講談社、主婦之友を極端な軍国主義に動員することで好戦意識を宣伝していたから、谷川氏の平衡論はその現実のなかで、日本のより高い理性をもつ文化能力を抹殺する理論づけになった。戦争について意見をもつ文化は、少数者の高すぎる文化として圧殺された。
日本が降伏して、日本の民主化がいわれはじめた。新しい日本の社会生活へ生れかわろうとする人民の真実な希望がうかがわれるらしく見えた。しかし三年たったいま、わたしたちのぐるりにある光景はなんだろう。三年たつうちに、民主化されようとする波をかいくぐって生きのびて来た旧い権力者たちは、日本の封建性というものをさかて[#「さかて」に傍点]にとって、日本の民主化を威脅しはじめている。一九四六年の日本でこそ、封建的なものは、民主的なものに反する性質をもっていることが一般の感情に明瞭にうけとられていたし、対立する本質の言葉としてつかわれてもいた
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