物が丁寧に説明するようになった。幕毎に、一種の前口上がつく、例えば、第一幕で、楽屋番の豊吉と蛇使いの女の一人とが長火鉢を挾んで説明、批評したことの内容を、お絹と林之助が第二幕二場でやって見せ、三幕目では、ちゃんと、菓子売の勘蔵が、前もって予告した通りのことが、やや茶番じみた台所の物音を先立てて起る。幕と幕とが切実な、新鮮な実感でつながれていなかったことが、ひどく俳優と、あるべき脚本の味を殺《そ》いだ。
「小野小町」は、上演の為に改作したのだそうだから、無理もないが、意味を自覚しない悪くどさで、失敗と感じた。(喜劇だから、笑わせさえすればよいと云うのなら、違うけれども。)
 宗之助の小町に、些も小野小町らしい大らかさも、才気もなく、始めから終りまで、妙にせっぱ詰った一筋声で我身を呪ったり、深草少将を憤ったりしたのは、頭が無さすぎた。
 科白も始めの部分と終りの方とでは言葉使いが違っている。勿論台本がああなっていたのだろうが、前半の写実風を一貫させるなら、深草少将の身代りに、口惜しさのあまり「そなたと契ろうよ」とかなり正面から哀切にゆき、身代りがあわてふためき覆面をかなぐりすて、
「やつが
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