八月号を見ていて感ずることであるが、雑誌の編輯というものも、面白いような妙なようなものである。この一つの雑誌に、「スタアリン治下の文学と作家生活」という座談会記事があり、ユウジン・リオンスという人の「ソヴィエトの作家」という文章があり、創作[#「創作」に傍点]の頭には勝野金政という人物の「モスクワ」という二百五十枚の小説がのっている。
 アグネス・スメドレイ女史のルポルタアジュ「馬」は、単純に書かれた短いものであるが、中国の今日の作品から遠くおかれている読者に、魯迅の短篇や「阿Q正伝」に描かれている村の出来事や人物とは異った出来事、人物の活躍が、単純素朴な形で今日の中国の農村におこりつつあることを物語っている。
 雑誌の内容についてはあくまで読者の判断にまかせられているのであろうが、そうとすれば今日の読者はいわば相当判断力を試めされかつ鍛えられている次第だと思う。ユウジン・リオンスという人はU・P特派員として六年ソヴェトにいたのだそうである。この人の文章を読むと、作家というものに対して筆者の抱いている評価、理解の低俗さに、どんな作家でも芸術の階級性以前の問題として一種の公憤を感ずるであろうと思う。
 リオンスの作家観をもってすれば、芸術院へ入ることを正宗白鳥氏がことわったことも、藤村氏が辞退したことも、荷風氏が氏の流儀ではねつけたのも、悉くわけのわからないことになるのである。リオンスによれば「一般に作家というものは、だいいち人間が一般にそうなのだが、信念などよりも、収入の方を大事にするものだ」そうである。孜々《しし》として鼻息をうかがっているものなのだそうであるが、リオンスはそういう皮肉そうな言葉づかいでとりもなおさず自身の事大主義的な性根を暴露しているのである。
 そうかと思うと、勝野金政の小説[#「小説」に傍点]がのっており、私はこの小説がどんな意企で、なんのために書かれたか知らないが、やはり感想を動かされた。
 今日の社会の事情の裡で、小説にしろ、どういう題材、どういう主題がどの程度にかき得るかということについては、常識が鋭敏にされて来ている。島木健作氏の小説「再建」の作品についての感想はここでのべず、それが発売を禁止されたことは、一般的な問題として当時多くの人々からも不賛成を示された近い一つの事実であった。
「モスクワ」という作品は芸術品として見た場合、芸術
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