などが論ぜられている。そもそも批評とはどういうものであるかということを今日の事情の中で再び見きわめようと努力せずに、当今の批評家なり批評なりが規準を失い指導性を失っている、その現象を、その現象の枠内で論じている形であるのは遺憾である。
 座談会記事のこの部分の小見出しは「批評家に従わぬ読者」とつけられている。しかし語られている現実について見ると、ソヴェトの文化の質的向上は、一見批評性の否定を意味するかのようなその小見出しの字面とは反対に、或る社会では、健全な社会性というものと文学作品に対する批評性とが一致して発露し得るという明るい現実の可能を示しているのである。
 ソ連の作家生活にも、あまり金のとれぬ作家と沢山金のとれる作家との差別はあるだろう、という話が出ている。それは当然あること、並に作家活動と社会への功績の理解との融合を除村氏は答えとして与えられている。私がソ連の作家生活の幾分を見聞したのは第一次五ヵ年計画以前のことであった。その頃でさえ、全露作家協会の共同金庫は、生活に余裕ない作家の生活援助のために保健費を出したり、原稿料の一部の前借を計らったり、消費組合をもって燃料、織物などの共同購入の便宜を計らっていた。一九三〇年頃には便利な食堂も出来ていた。ノビコフ・プリヴォーイが「日本海海戦」を書くことが出来たのは、作家の住宅問題を緩和するために郊外に「創作の家」があったからである。
 今日、こういう作家生活全般のために考えられている設備はどんなに発展して来ているであろうか。文学サークルなどの活動はどんなになって来ているであろうか。座談会が、こういう具体的なところで、もっと詳細に語られなかったのは本当に惜しかった。
 一般の読者にとっても作家にとっても知りたいのは、金をとる人間の金のつかいかたより、金を大してとれないものが、猶どんな新しい社会的施設によって文化活動者としての発育の可能性、即ち才能の具体化の可能性を守られているかということである。
 先頃帝国芸術院が出来、顔ぶれがきまった時、その一員となった或る文学者の近親が、勅任官待遇で野たれ死にしたら面白いことだね、という意味をいったそうである。そういう一言はピンと誰の胸にも来る。そういう現実の中では読者の興味も極めて具体的な面をもっているのである。

        「作家」という名詞の内容

 やはり『文芸』の
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