以前のものであり、読者の大部分に直ぐ誰とうなずけるような歴史的な人物などを配置して、しかもそれが、では、どこまで報告的確実さがあるかというと、その点では小説の方へずり込んでぼやけるような安心を与えない効果をもっている。「作家クラブ」「清党される日」「病室の独裁者」とかいう小題が付せられている章も、ゲ・ペ・ウに呼びつけられた時の描写や何かと混っているのである。
 編輯後記には、ソ連に数年滞在した若き作家と紹介されている。筆の立つ人であるらしく、数年前或る役所からこの人の名で独特なパンフレットが出ていたような覚えがある。いろいろを考えると、「作家」という名詞の包括力の大さに、慨歎せざるを得ないわけである。

        「新日本文化の会」の結成

 噂のとおり、文芸懇話会が、最後に川端康成氏と尾崎士郎氏とに授賞して、十六日解散した。懇話会の主宰者・元警保局長松本学氏談として、帝国芸術院が出来上って、政府もわれわれの考えるような文化への態度を明らかにして来たから、芸術院に具体的活動をさせるためにも懇話会は解散し、自分は新しく出来る文化中央連盟と林房雄君等の努力によって出来上る「新日本文化の会」のために力をつくしたいという意味が語られているのである。
 文芸懇話会が組織されたのは昭和十一年一月であった。「三年間にやった仕事は相当意義のあったものと信じている」という松本氏の感想は複雑なそれぞれの社会的角度から見ても否定し得ないものを持っている。日本の文学者の一部が、文芸懇話会の成立をめぐって明治文学以来の進歩的伝統をすてた政治的性格をもちはじめたことは、少くとも将来書かるべき日本文学全史の上に、一時期を画した事実なのである。
 文芸懇話会は、一千円ずつの文学に対する懇話会賞を与えて来た。何人かの作家がそれを受けたのであり、川端康成氏は、こういう賞のつづけられることを個人的希望として述べておられる。しかし、授賞すべき作品、作家の選定にあたっては、これまでも様々の矛盾を暴露して来た。作品評価の任に当っている懇話会員である作家たちは作品としての価値で、文学の立場から或る作品の優秀性を認めて、実際の投票では最高点を得ているものが、いわゆる左翼に属した作家であるという理由で棄却された実例がある。作家を会員としても、作品の価値判断に最後的決定を下すのは文学でも作家でもない憾《うらみ》
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