に遺《のこ》るのを……
階下の六畳では、行火《あんか》に当りながらせきがその音楽を聴いていた。うめはもう寝ている。厠へ通う人に覗かれないように、部屋の二方へ幕を張り廻してあった。継ぎはぎな幕の上に半分だけある大きな熨斗《のし》や、賛江《さんえ》と染め出された字が、十燭の電燈に照らされている。げんのしょうこ[#「げんのしょうこ」に傍点]を煎じた日向くさいような匂がその辺に漂っていた。
長く引っぱって呻くように唄う言葉は分らないが、震えながら身を揉むようなマンドリンの音と、愁わしげに優しい低い音で絡み合うギターの響は、せきの凋《しな》びた胸にも一種の心持をかき立てるようであった。下町の人間らしい音曲ずきから暫く耳を傾けていたせきは、軈て、顔を顰めながら、艶も抜けたニッケルの簪《かんざし》で自棄《やけ》に半白の結び髪の根を掻いた。
「全くやんなっちゃうねえ」
思案に暮れた独言《ひとりごと》に、この夜中で応えるのは、死んだ嫁が清元のさらいで貰った引き幕の片破《かたわ》ればかりだ。
「全くやんなっちゃう」
今日風呂へ行くと、八百友の女房が来ていた。世間話の末、
「おばさんところの異人さ
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