は変に思えた。喧嘩が本気なのかどうか疑わしい心持になった。マリーナにとっても、夫のそういう態度は不満であった。自分一人の口過ぎさえしていれば、エーゴル・マクシモヴィッチにとって自分はどこに暮していようとかまわない存在なのか。三百円返す気はないのか。異様な不安が、彼女の厚い、ややじだらくな胸を掻き廻すのであった。ダーリヤは、彼女の自信のない心の底を見透して、或る時は哀れに、或る時は若い女らしい皮肉を感じた。けれども、何も見ないつもりにしている。マリーナも、それについては沈黙を守っている。騒ぎやのマリーナ・イワーノヴナに対して、ダーリヤは私《ひそ》かに自分の平静な気質に誇りさえ感じているのであった。
 ダーリヤが、縁取りの三分の二も進んだ頃、やっと下で、
「叔母《チョーチャ》さん」
と呼ぶ、アーニャの細い、神経質な声がした。
「やっと来た!」
 ずしり、ずしり降りてゆき、マリーナが、
「迷児にでもなったんだろう? 馬鹿だから……ふーむ、まあいい、いい。――それで?」
 切れ切れに云う声が聞える。突然彼女は大声で笑い出した。
「ハハハハ何ておかしいんだろう! ダーシェンカ! まあ一寸来てこの
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