フランツ・ヨーストは、次第に自分の生活が何だか他処の子とは異うようなのに心付き始めた。
 例えば、隣りのエルンストは、彼と同じ年であったが、よく父親に怒鳴られて耳を引張られていた。自分は唯の一度父親に耳たぼさえつねられたことがあるだろうか。
 忘れられないことがあった。
 ちょうど堅信礼を受けて間もない或る日、彼は父親が直したばかりの自鳴器《オルゴル》つき懸時計を、仕事場の此方から、彼方の壁に持って行って吊ることを云いつけられた。
 フランツは、時計を捧げて一二間歩いた。が、ちょっとうっかりした機勢《はずみ》に何かに蹴つまずいた。はっと思う間に、大事な時計は彼の両手の間からすっ飛んで、いやというほど彼方の箱にぶつかってしまった。
 フランツはぎょっとして首をちぢめ、立竦んだ。ハンスは怒鳴りながら飛んで来た。そしてぐっとフランツの肩を掴んだ。がフランツが、あやまろうとして父親の顔を見上げると、彼は何故か、黙ってそろそろ手先の力をゆるめた。やがてすっかり肩から手をはずした。そして、却ってフランツを恐れさせた静かな口調で一言、
「もうよい、彼方へ行け」と云った。
 フランツはその時、どんなに
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