にみると、映画においてはその技術的前進に語られている人間の勝利と、その技術をもって語る作品内容の社会的相貌、人間性の勝敗の様との間に常に鋭い歴史性を反映するギャップがある。そのギャップを原則的にうずめ得る文化をもつ国は例外であって、映画の技術によって拡げられた国際性、短縮された時間の観念などにさえも、その根底的なギャップの本質が作用して、或る事情のもとでは人間の勝利である映画技術の縦横のリアリスティックな駆使をはじむるに至る。この環境的な映画の性格についても観るものの生活意慾は何を感じるであろうか。
地方の目立たない小都市や村々の中へもちまわされる映画の性質とそれを観せられる人々の生活とのいきさつも複雑であると思う。東京では見かけないような特殊なものが地方まわりをしているらしい。啓蒙をめざされているとしても、感情や主題が非現実的で中央ではまさかこうは表現されないが、というようなものであれば、結局どういうことになるのだろう。
今日の観衆は、又、大人の感情で子役をつかう所謂童心を描く映画に対して、もっと清潔であってもいいのだと思う。無制限に甘え合わないでいいと思う。文学の作品としてそう
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