観る人・観せられる人
――観客の問題――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)靠《もた》れ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年二月〕
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 外国の映画がこれまでのように輸入されなくなったということが、日本映画の製作を刺戟して、優秀な作品のいくつかを生み、その水準も高めたというのは実際であるし、そういう外部的な事情をぬきにしても、直接日本の生活の種々相が描かれ、語られ、示されている日本の映画というものは私たちに深い親密さと期待とを抱かせていると思う。日本の昨今は、日常現実の生活が、アメリカやイギリスや又ドイツなどとも随分違う。ちがった複雑な生活の感情が日々を貫いているのだから、その生活を掴んだような映画の出ることは、皆がひとしく心のどこかで待望しているところであろうと思われる。ところでそういう人生的な映画はどの程度まで製作され得るのだろうか。今日の観客は、期待と同時にそういう疑問をも抱くところにいる。日本映画を一定のところまで押しすすめた諸事業そのものが、それから先の二歩三歩、真の大作品として
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