毎に私の苦しさは段々と勝って来た。私は「何! 何!」斯う云いながら太い太い溜息をついてヒョット御けいちゃんのかおを見た。
「アッ」私はそう云ったまんま目をつぶらないわけには行かなかった。ガックリとあごのはずれた骨ばかりの顔がお敬ちゃんの胸にくっついて居た。どうしても私はそれが気のかげんだと云ってしまえないほどおびやかされた気持になった。そしてふるえた。いかにもおく病らしい声で斯う云った。
「今おけいちゃんのかおが骨ばっかりに見えた」
「何をマア、だから貴方今日はどうかしてるって云うんだ、その青いひやっこそうな顔はマア」
 思いがけなく今まで思いもよらなかった力づよい様子をして私の肩を叩いて居る。
 私とお敬ちゃんの気持はまるであべこべになって仕舞った。そして、苦しさにみちた私の心は、いまにもはりさけそうになって居る。ひたいがつめたくなって、気が遠くなりそうな気がする。
「そんなに苦しいんならもうゆるしてやるがいいさ」形のないものは私の頭に斯う指図をした。
「家へ帰りましょう、それから思いっきりにぎやかな所へ行きましょう」
 小さい声で云ってつまさきを見たまんま大急ぎで家の沢山ある通りに出た。
 そして、そのシトシトと秋の空気の中にひびいて居る人の足音、潮の様などよめき、そうしたものの中に私達二人はホッとしたように手をかたく握り合って立った。急に私の目から涙がこぼれて来た。それをかくそうともしないで私はお敬ちゃんの手をひっぱって、嵐の様な勢で家にたどりついた。そして私の部屋に二人で馳け込むやいなや、私はたまらなくなっておけいちゃんのひざにつっぷして仕舞った。
 御敬ちゃんは、
「貴方、あんまり何か考えすぎたんだ、キット、だけどもうすんで仕舞った事だから……」
 こんな事を云って私の頭を押えて居て呉れた。私が泣きやんでしまっても、二人は手をにぎりあったまんま、口もきかずにお互の胸の波うちを見つめて居た。

     彼の女

 日向ですかし見るオパアルの様な複雑した輝きと色とをもって居る彼の女は、他人の量り知る事の出来ない程いろんな事を考え、想像する力をもって居た。彼の女は、毎日の暮し方でも気質でも進んで行く方向でも、まるであべこべの事をして居る男でかなり仲の好いのをもって居た。女の心から出るいろんな光りは、男の様子をこの上なくきれいなものにして見せたり、又とないほど腹のたつほどいやなみっともないものにして見せた。笑いながら軽い口調でじょうだんを云いながら、女は男の心を目の前に並べて見て居ると云う事は、男がどんなにしても知る事の出来ない事だった。女の心はよく男の心とまるであべこべの方に走って行く事があった。それでも二人はにらみ合いもしないで会えばじょうだんも云い、下らない事で笑ったりして居た。女は自分の心の底の底までさらけ出して男に見せたくなかった。自分の思って居る事、考えて居る事を、男が味のない話でうちこわしにかかると女はいつでもフッと口をつぐんで、すき通る結晶体の様な様子をしてたかぶった目色をして男を見て居た。時には自分の予期して居る返事とまるであべこべの事を云われた時の辛い心を味いたくなさに「何々と云ってちょうだい」と口まねをしてもらう事さえあった。男は彼の女をよく我ままな人だと云って白い眼をする事もあった。けれ共どうした訳か二人は仲が悪くならなかった。女の一寸したそぶりが男の気にかかって、一晩中ねもしないで翌朝青いかおをして男が来た時も、女はすき通る様なうすいまぶたを合わせてね入って居たり、男が女の気むずかしいかおを気にするのを見向きもしないで、柱に体をぶっつけてふてる様な様子をしたり――はたの人から見ればきっとこの次会った時には、お互に知らんかおをして居るに違いないと思うだろうと思われる事をしながら二人の間に日が立ち月が流れて行った。女は心中しかねないほど自然を愛して居る。美しい葉の輝き、草の香り――そうしたものを見るとたましいのぬけた様にボーッとして居る事が多かった。限りない嬉しさに思わず土にひざまずいた時等にうっかり居合わせる男は気が気でないと云う様に女の様子を見つめてだまってその耳たぼのうす赤くすき通るのを見て居るのがあげくのはてには女の心をかたまらさせてしまって居た。美くしさ、快さの中に吸いこまれて居ると「何をぼんやりしてる?」なんかって声を男がかけた時女は「いやな人ったらありゃあしない、もう絶交さ……」こんな事を小声で云って男を息づまらせたりして居た。
 彼の女は恋をするなら人間ばなれのした、命がけの燃えさかって居るほのおの様な、お互に相手の名と姿と声と心と――そうしたものほか心の中にかつて居ないほどの恋がして見たかった。けれども女はいろいろに出る心をもって居た。片っ方のまっかな光が恋をしようとすれば、すぐその裏に光って居るまっさおな光がせせら笑いをしてちゃかしてしまうのが常だった。心の光が全体同じ色に光って呉れる時は、どこに行っても手を開いて抱き込んで呉れる自然に対した時ばっかりであった。
 赤い光が「彼の人を恋人にしてやろうか」とつぶやくと青い光は「フフフフフ」と笑って笑いも消える時には「恋人にしてやろうか」と云う光は消えてしまって居た。
「恋をするんならお七の様な恋をする。それでなけりゃあ歯ぬかりのする御□[#「□」に「(一字不明)」の注記]みたいな恋はしたくない……」彼の女はよくこんな事をその男に云う事があった。
 春がすぎて夏になった。囲りにはまるで若武者の様な力づよさとなつかしさがみなぎり始めた。彼の女はもう男の事なんかすっかり忘れぬいた様になって、このまんま死んで行きゃしまいかと思われる様な草の香りや、自分の姿を消してしまいやしまいかと思われる青空の色やに気をうばわれて居た。其の男はぬけ出した彼の女の魂の又もどって来て自分を思い出して呉れるまではどうしてもしかたがない――とあきらめた様に女の様子を上目で見守って居た。男は彼の女があんまり思い切った様子をするのが見て居られなくって旅に出かけた。その時も女は一寸ふり返ったっきり又ふり返って「行ってらっしゃい」とも云わなかった。それでも男は旅に出た。彼の女は「恋人にすてられた人が苦しさを忘れ様と旅に出る様な様子をして居た事」と思ったっきりであった。夏の末、秋の初め――いろいろに美しくなる自然は段々彼の女に早足にせまって来た。女の目はキラキラとかがやいて唇の色はいつでももえる様にまっかになって居た。何でも自然の作ったものを見る彼の女の様子は初恋の女がその恋人を見る様に水々しくうれしそうでさわる時には、苦しいほどのよろこびとに体をふるわせて居た。彼の女はあけても暮れても自然の美くしさに笑い歌い又泣きもして居た。男の事は頭の中になかった。女は沢山歌を書き文を書き只自分が自然と云うものの中に自然に一番したしい芸術と云うものの中に生きて居るのを感じて居るばかりだった。
 秋の中頃旅を終えて男が帰って来た。その日も彼の女は青白く光る小石に優しいつぶやきをなげながら男には只「お帰んなさい、面白かったでしょう」と云ったばかりであった。そして原稿紙の一っぱいちらばって居る卓子に頬杖をつきながら小声にふとからからと湧いて来る歌を口ずさんで居た。男はそのわきに少し目の落ちた彼の女の青白い横がおを見つめて立って居た。男はどもる様にこんな事を云った。
「どうしてそんなひやっこい様子をして居るの、何か腹の立つ事があるの」
「腹の立つ事なんか一つもありゃしない、うれしくってうれしくってしようがないんだから……」
 彼の女は斯う云って又歌のつづきを云って居た。
「何がそんなにうれしいんだか話して御らんなさい」
「聞いてどうするの?……私には、貴方よりももっとすきな、そしてもっと好い恋人があるから……」
 彼の女は平気で髪一本ゆるがせないで云った。目は小石を見て居た。それでも男の顔の色が一寸変ったのを彼の女は知って居た。化石した様にだまって突立って居た男は、押し出される様に「じょうだんは云いっこなし……」男はどうぞこれより私を驚かせる事は云わないでネと云う様な目をして彼の女を見つめながら云った。
「ほんと、……何故そんなにびっくりするの?」
「ほんと? ほんと? 一体……どんな人なんだろう」
「どんな人でもない……自然……エエ、自然、マア、どんなに私を可愛がって呉れるんだか……」
 彼の女はかるくほほ笑んだまんま云った。男のかおには少し安心したらしい色が見えた。それでもまだかたくなっておどろいた様子をして、彼の女の萩のナヨナヨとした若芽で結んで居る髪を見つめた。
「私の居ない間に自然が貴方をとっちゃった……」
 男はこんな事を云った。彼の女の口元はキュッとしまった。そして、
「私はあんたのもんじゃあ始っからありません」
 裁判官の様に重くひやっこく女の声は云った。
「御免なさい」
 男は小さなふるえた声で云って原稿を机の上から取って読んで居た。女はさっきの事をもう忘れた様に歌を云って居る。
 沢山の歌の中に、男は彼の女の気持を見つけ出した。そして木々の葉ずれ、虫の声、そんなものに霊をうばわれて小さいため息を吐き、歌をよみ、涙をこぼして居る彼の女をソーッと見て、もうこの人のきっと死ぬまで自然を恋して居る人に違いない……と思った。
 それから二人は、歌をよみ合ったり、限りなく広い世の中を話し合ったり、会った時にはきっと真面目な考え深い時を送った。夜二時三時まで頬を赤くして亢奮した目つきで話し合ってその時男の云った事が合点が行かなくって一週間もつづけざまに一つ事を話し合った事もあった。彼の女の自然を愛する心は日毎に深くなって行った。男からはますます解らない謎のかたまりになって来た。けれ共云う事はお互によく分り合って居た。
「貴方は段々私に考えさせる様になって来る」
 男はあけくれ机に向い自然とぴったりあって嬉しさにおどって居るまだ若い彼の女を見て居た。彼の女の心のオパアルはより以上に複雑にこまっかくするどい光をはなして居る。

     或る人の一日

 何とはなし、どうしてもぬけないけだるさに植物園にスケッチに行くはずのをフイにして、食事がすむとすぐ相変らずのちらかった二階に上って、天井向いてゴロンとひっくる返った。ぞんざいな造りの天井をしさいに見て居ると、随分といろんなものがくっついて居る。それを検微鏡で見たらさぞ面白かろう、まのぬけた顔をしてこんな事を思った。まだ買って来て半年もたたない浅草提灯のひだのかん定を始めたが、どうしても中途まで来ると数が狂ってしまう。幾度くり返してもくり返しても同じなんで「人馬鹿にしてる」こんな事を浅草提灯に云ってムックリと起上った。机の前に座ったがどうも気が落つかない。こないだ注文してやった筆立の形も思う通りに出来るかと思って不安心だし、下絵の出来て居る絵の色の工夫も気にかかる。「第一うちに女竹がないからいけないんだ。黒猫ばっかりもらったって何にもなりゃしない」一人ごとを云って壁紙に女竹と黒猫を書いた下絵を見つめる。どうしてもあの三本目の竹の曲り工合が気に入らない。思いきって破いちまおうかと思わないでもないが、一週間つぶしたと思うと流石《さすが》未練がのこる。「マアいいさ、なる様にはなるにきまってる」いくじのない理屈をつけてヒョッと目にふれた三重吉の『女と赤い鳥』をとる、夢二の絵の中によく若い娘が壺を抱いて居るのがあったが、あれはこのパンドールの壺なんだキット、こう思って長い間のなぞもとけた様な気がした。「赤い鳥」をよんで居るうちにフッと自分がまだ十七八の時の事が思われた。
「彼の時分は若かった」斯う思うとほんとうに心がゾーッと寒くなる様な気がする。こないだあの人が来た時にそう云って居たのがやっぱりあたってる、と思われる。小さい時からきりょうよしだと云われて居た自分の目の大きい顔の白い、髪のまっくろでしなやかで形よく巻けて居た様子が、博多の帯をころがした時よりも早く悲しげな音をたてて頭の中にくりのべられた。朝起きぬけから日の落ちるまで絵具箱
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