おこすわけもないじゃないか……」
「あんたが間の抜けた様子をするから悪いんだ!」
女はさっきの気持とまるであべこべのふっくりした声と気持で云った。
二人は窓ぎわに並んで座った。男の頭の回りをしとやかな秋の日和がうす赤にそめて居るのや、衿足のスーッと長いのが女にはやたらにうれしかった。
「私はうれしくなって来た」
ことわる様に女は云って、いつもする様に手だの耳ったぼだの肩だのをひっぱった。
男はしずかにしながら、小声で小学歌をうたって居る。のんびりした音律のフレンチのしなやかな音調のうたは感じやすい女の心から涙をにじませるには十分すぎて居た。男の肩に頭をおっつけて目をつぶって女は夢を見かけて居た。
「私達は人並じゃなくしましょうよ」
女はフイとこんな事を云い出した。
「人並じゃなくとは?」
「ホラ、ネ、知ってるじゃありませんか。だれでもがある様に死ぬまで一緒に居られる様な時になるとたるんで来て、お互にあきあきしてしまってさ」
「私達にそんな事があるもんかネ」
「それをほんとうにネエ、なんて云うほど私の心はおぼこじゃありゃしない。だから私なんか死ぬまで別々の家に住んで、お互に暮し向の事なんか一寸も知りあわずに居た方がいいとも思ってる……」
「そいじゃ張合がないんじゃないか」
「だってしようがありゃしない、いやな事にぶつかってしかめっつらをして又あともどりするより、笑いながら始めっからぶつからない様にして居た方が好いと思うから」
「もうおやめ、これがすめば又かんしゃくを起すんだろう? おやめ、下らない、もっとおだやかな気持をいつでも持ってなくっちゃあならないよ」
「だって考えられるんだからしかたがない、ネ、そうじゃない? 『愛情の夫婦生活はそう長くつづくものではない、今さめたんだよ、これからは二人の間の忍耐力をためされる時が来たのだ、こらえろよ、ナ、こらえろよ』決闘ん中にあるじゃありませんか、斯う――
私はこんな事を思う様に、又人から云われる様にはどうしてもなりたくないんだもの……」
「ほんとうにおやめ、今日はよっぽど亢奮して居るよ、もっとのんきな事を話し合ってたっていいんだから」
「エエ」
女は気のない返事をして、男は一寸もこんな事を考える事はないのかしらんと思った。男の手を後から廻して自分の手をもちそえて頭を力いっぱいにしめつけた。そして神経的なまとまりのない高笑いをした。
もう男にすれきった女のする様な大胆な凝視を、男の瞳の中になげ込んで男の心の奥の奥までを見ぬきたい様な、片手でつかまえて片手でつきとばしてやりたい様な気持になった。
「一寸の間しずかに落ついて何にも考えずにおいで、又今夜ねむられなくなってしまうからサ」
男は不安心らしく小さい声で云って肩を押してまどの日かげに座らせた。女は音なしくされるままになって、よろこんで居ながら反抗する気持やフッと男のやたらにみっともないものに見える事のあるのやを、ふしぎな情ない事の様にも又何となくくすぐったい事の様にも思った。頬杖をついて目を細くしてジーッとして居るのにあきた女は、鼻の方にあくびをもらして男の腋を一寸小突いた。クルリッと見向いた男の目の中に、女はいかにもかけ引きをして居る様な損得ずくらしい様な光りを見つけた様に思って、
「何考えていらっしゃる?」
いまいましそうな調子にとんがり声で男にきいた。
「何? 人間は考えなければならない様に作られてるんだから何かしら考えてるサ!」
「何を考えろって云う事は出来ない?」
「云ったって云わないだって同じ事じゃないか?」
「だって――まさかお金の勘定もしやしまいしするけど……」
「お金の勘定するのがいやなんかい?」
「外の女よりはきらい、私が自分でお金をとる様になったら部屋中机の中《ナカ》中にまきちらして置いたらと思ってるほどだから……」
「勝手な事を云う人だよ、それで世の中が今渡れたら乞食は居るまいがネ――」
男は見下す様な気持で、口の先で云った。
「アア、今日はほんとうにすきだらけだったらありゃしない、まるですきあなからお互にのぞき見して居る様だ、またいつかこんなんならない様な日に来ましょうネ……」
「そんな事云わずに世間ばなしでもしておいでネ、一人で居る時には考えてばかり居るんじゃあないか――」
女はそれには答えずに、
「来る時には随分満ちた気持で居たんだけど、今じゃもうはぬけの様になっちゃったんだもの……」
やるせない様に云って右の肩を一寸あげた。
「そんなに私をいじめるもんじゃないよ」
と低い声で云う男の口元を見た時、女の心の中には今までの後向になった気持にこっちを向かせるほど力のある一種のうるんだうれしさと悲しさとがこみあげて、のどのところでホッカリとあったかいまあるいかたまりになった。唇をかるくかんで女は男のかおを見入った。大変おだやかなゆとりのあるかおに見えて居て、その両わきにある耳の大きさと鼻の高さが気になって気になって、どうにも斯うにもしようのないほどであった。目の前にあるかおをすぐに両手で抱えて、胸におしつけてしまいそうな気持と何となくものぐさいようなものたりない様な気持がのどの一っかたまりの中でもみ合って女のかおは段々赤く目に涙がにじみ出して来た。
「たまらなくうれしくってたまらなくいやで――もうたまりゃしない――私は帰るサ、変になっちゃったから……」
ガサガサした声で自分から手をかたくにぎって、女は云いながら立ち上って、着物の上前をおはしょりのところで引っぱった。
「じゃおかえり、今夜は寝られなくなるかも知れないネエ、私もそこまで行こう」
近頃にないほど感情の妙にたかぶって居る女を、別にとめようともしないで男は一緒に上り口から軽るそうなソフトを一寸のっけて年の割に背のひくい男[#「男」に「(ママ)」の注記]の白い爪先を見ながら、ふところ手をして歩いた。
二人はおうしにされた様におしだまって、頭の方を先に出してあかるい町の灯をよける様にして写真屋のかどまで来た。
「ここで買物して私はかえるよ」
男は云いたくない事を無理に云う様な調子に云った。
「そう、家へいらっしゃいな、あの人達もまってるんだから……そうなさいネ」
女は別に並の女のよくする様なおあいそうのある様子や目つきは一寸もしないであたりまいサと云った様に云った。
「そうさネ……だが今日はよそうよ、用もたまってるし書かなきゃならない事だってあるんだし」
男は女に気がねする様にしずかに云うのをそっけなく、
「そう、じゃ左様なら、又いつか……」
と云い押[#「押」に「(ママ)」の注記]えてかるく頭を下げて両手をふところに入れて、わき目もふらずに歩き出した女は、ふりっかえらない。でも男が写真屋の店さきに原造[#「原造」に「(ママ)」の注記]の薬を出させながらまつひまに私の後姿を見て居るのだと云う事を知って居た。あかるい町をすぎて、フイと暗い町すじに来た時、女はわけなく自分の傍を見た。そうして今ここに一人ぼっち歩いて居るのは、ほんとうの自分でない様に今までの事を自分でして来た事じゃない様に思った。
「妙なもんサ」
女の心はなげつけた様にこんな事をささやくと一緒に馬鹿にした様な涙がこぼれ出した。
自分達のして居る事の不平やら不安やらが頭の中におしよせて来た。眉をピリピリッとさせてうなる様に、
「どうせ……どうせ」
ときれぎれに云って立ちどまって深い息を吐いた。
「パンをかじりながらキッスをしなくっちゃあならない世の中なんさ」
女は暗の中にうごめいて居る見えない不安や不平にこう云いやって、手をおよぐ様にふっていきなりかけ出した。走りながら「どうせ……どうせ……」と女は思ってパッと見ひらいた目からとめどない涙をこぼした。
二階に居る時
ヘリのないぞんざいな畳には、首人形がいっぱいささって夢□[#「□」に「(一字不明)」の注記]の紙治、切られ与三、弁天小僧のあの細い線の中にふるいつきたい様ななつかしい気分をもって居る絵葉書は大切そうに並んで居る。京の舞子の紅の振、玉虫色の紅の思われる写真は白粉の香のただよいそうに一っぱいちらばって壁に豊まろの女、豊国の女房はそのなめらかな線を思いきりあらわしていっぱいはってある。すすけた天井からは、浅草提灯が二つ、新橋何とかとそめぬいた水色の手拭までさげてぶらさがって二つある。柱には紙で作ったひなが二つ、昔話しを思い出させる様に、はすっかいにとめてある。唐紙、カンバス、絵の具、なつかしい切り抜きの絵、文芸雑誌――そんなものがいっぱい散らかって漸く私達の座る事の出来る所だけすきのある様なせまい二階に二人は熱にうかされた様に話し合って居る。だらしないとりとめのないような部屋の中にもどことなしに私の心にピッタリとあう、なつかしさとにおいがただよって居る、髪を一寸ながくして内気なかおにかるい笑と力づよさをうかべて一生懸命に話す若い絵書きの前に、私は髪を一束につかねて、じみな色のネルを着てその人の絵絹の上に細筆を走らせる時の様に、かすかに動いて居る様な手を見ながらその話にききほれて居る。
「話し相手がないもんですからネ」こんな事を云ってその人は思ってる事――今まで話す人がなくってためて置いた事をあらいざらい云ってしまわなくっちゃあならない様に話して居る。
「いやんなっちまうんです、ほんとうに、老[#「老」に「(ママ)」の注記]よりばっかりですもん、どうでも私の思ってる事なんか分るもんですか。それで居て勝手な事ばかり云って居るんだもの……私達が又今の親達位の年頃になれば子供にこんな事云われる様になるんだろうけれ共――」
「誰だってそんな事思うでしょう……我ままじゃなくしたってそうにきまってるんですもの……そいで又、親なんかになるとまるで自分の若い時は人間じゃなかった様に若々しかった気持、たえず震えて居た心なんかって事はまるで思いきったほど忘れてるんだから……」
「そうですよ、ほんとうに、エエほんとうにそうなんです。忘れるも忘れるもいじの悪いほどきれいに忘れて生れ落ちるとすぐっから世間を知って居た見たいにサ、私達にはしゃべってるんだから妙なもんですよ、頭なんて云うものは」
「まるで忘れてるって云うんでなくったって、新らしいゴムマアリの様に力強い若々しい嬉しい事、悲しい事のしみじみと思われた時代を気のぬけた風せんの様にクチャクチャになってしまった今日思い出すのはキット辛い事でしょう。だからわざと思い出すまい思い出すまいとしてるんでしょう。私はそんな風に思われます……それがあたってましょうキット……」
「私達みたいに若いもんでさえ、落椿を糸で通してよろこんで居た事を思い出すと寒い様な気んなりますもんねエ」
「……」私はフットさしてある首人形を見てお妙ちゃんを思い出してしまった。うつむいてかるく目をつぶって「忘れたい」と思ってた。あの時着て居た着物――あの時さして居たカンザシ――帯、はこせこ、こんな事がズラリと頭の中にならんでしまった。
「どうしたんです?」その人は私が急にだまりこんで考えてるんでビックリした様なつつぬけの声を出した。「何でもないんです。一寸首人形を見たら思い出した事があったんで……」こんな事を云って私はつくり笑をした。
「どんな事? 首人形を見て思い出すなんかって……いかにもやさしそうな事ですネ、話しませんか?」
「エエ、そりゃあやさしい事《こ》ってすけど……こんなとこでポイポイ云っちまうにはおしい話だから私がお話ししたくなった日に云いましょう」
「大抵は想像してるけど……京の舞子かなんかの話しでしょう、そいでなくってもキット京都にかかりあいがあるに違いないネ? そうでしょう?」
「それだけ分ったらもうだまってらっしゃい、それより余計な事をおっしゃるとキット私のいやな事になるから……」
「何だかおどす様な事云うんですネエ」その人は私のかおを見ながら、こんな事を云った。私は首人形を見つめながらだまって笑って居る。
「あの私がよく行く京橋の家に三階から『テッテケテ』な
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング