にしずかだ事、去年もいつだったかこんな日があったっけ、覚えてる?」
 私はほんとうに好い気持で云った。お敬ちゃんは畳に散って居る五行本の字を見つめながら、
「ほんまにしずかな好い日や」
 こんな事を細い声で云った。
「そやなあ、塗下駄はいて大川端を歩いて見たいなも、どんなにいいやろ」
 私達はぶきっちょな口つきでこんな事を云いあって顔を見合わせて笑った。
 お敬ちゃんの桃割れにかけたつまみ細工のしんから出るかるいかおりにいい気持になりながら、
「紙びなさんつくって見ない?」
「して見ましょう、もう私なんか十年も前の事だワ、そんな事をしたのは」
 私は、千代紙と緋縮緬と糸と鋏と奉書を出しながら云った。器用な手つきをして紙を切ってさして居たかんざしの銀の足で、おけいちゃんはしわを作った。それに綿を入れてくくって唐人まげの根元に緋縮緬をかけてはでな色の着物をきせて、帯をむすんでおひなさんは出来上った。二人はそれをまん中に置いて目も鼻も口さえない、それでも女と云う感じがする不思議なこの御人形さんを見て居た。
「たまにフッとした出来心でこんなものをこしらえるのも今日みたいな日には悪かない」
 お敬ちゃんはこんな事を云って頭をなでて見たり、こまっかいひだをさすったりして居る。
「紙人形は首人形と同じ位、私の大好きなお人形さんだ。あたまのこまっかいひだの間なんかにはキットおばあさま、おかあさま、ばあやなんかの思い出がこもってる様でネエ」
 こんな事も云った。
「ネ、お敬ちゃん、お染とお七と――その気持の出る様なのを作って見ない」
 私がものずきにこんな事を云い出した。
 それから二人はまるではなればなれの気持になって、白い紙と糸と、幼い色をした千代紙で、自分の心にうつって居るお染なりお七なりを表わそうとつとめて一つ鋏を入れるのにでも気をつかった。
「出来て?」
 小さな声できくと、
「私、思う通りに出来ないんだもの」
 おけいちゃんは斯う云ってフンワリ丸味のあるかおに高島田に結って、紫の着物に赤い帯を猫じゃらしにむすんだ人形をポンとひざの上になげ出した。
「もうやめましょう」
 私達は一どにこう云って、細くて長い雨足をシックリ合った気持で見て居た。
 パタリとしとやかな音をたてて、お敬ちゃんのあたまから赤いつまみの櫛が落ちた。拾おうともしないでそっと見て居ると、すみの方の足に細い光る髪がキリキリと巻きついて居る。
 古い錦絵、紙人形、赤いつまみの櫛の歯の黒髪、これだけの間に切ってもきれないつながりがある様に――又その間からしおらしい物語りが湧いて来はしまいかと思われた。
 雨のささやきに酔った様にお敬ちゃんは、机につっぷしてかすかな息を吐いて夢を見て居る。スーッとかるく出したたぼ、びん、耳から肩にかけての若々しいかみ。
 私はどうしてまあ、今日はこんなにウットリする様な事ばっかりあるんだろうと思いながら、長い袖でお敬ちゃんの首をかかえた。そして自分も夢を見て居る様に身うごきもしないでジッとして居た。いつまでもいつまでもおけいちゃんは目をさまさなかった。フッと身ぶるいをしてかおをあげたお敬ちゃんは、いきなり私のかおを見るなりつっぷしてしまった。
「どうして? うなされたの?」私はうす赤くなったまぶたを見ながら云った。
「イイエ、今までこんなに長い間、私はねてたんでしょう、随分何だ事……」
 こんな事をひっかかる様な口調で云って、肩をこきざみにふるわして笑った。それから二人でわけもなく笑い合いながらお風呂場に行った。
「顔を洗うだけネ」
 廊下でこんな事を云ったのに、あの何とも云われないお湯の香り、おだやかな鏡の光り、こんなものにさそわれてとうとう入ってしまった。湯上りのポーッとした着物[#「着物」に「(ママ)」の注記]をうすい着物につつんで、二人は鏡の前に座った。
「これからどうしましょうネ、なんかこんな時にふさわしい事がして見たい」
 私はうす赤な耳たぼをひっぱりながら云った。
「そんならお化粧すりゃあいいワ」
 雨の音にききほれてぽかんとした声で云った。お敬ちゃんはすぐに言葉をついで、
「お化粧のしっこをしましょうネ、それがいいワ、ネエ」
 こんな事を云って、あまったるい好い香りのするものや、ヒヤッとした肌ざわりの、それで居てたまらなく好い気持のものをぬられたりして変って行く自分のかおを目をつぶったまんま想像した。眉のあたりをソーッとなでて、
「これでいいんだワ、ごらんなさい」
 私はこわいものを見る様に、両手でかおをおさえて五本の指の間から鏡の中をのぞいた。
「マア」私はこう云わずには居られないほどきれいにあまったるい様なかおになって居る。
「何故こんなになったんでしょう。あんまり私らしくない――まるで年中着物の心配で暮して仕舞う娘の様な――」
 私が自分のかおを自分で批評して居るのを傍でおけいちゃんは目で笑って見て居る。
「こんどはお敬ちゃんの番」
 私はこう云って、このお敬ちゃんのかおを自分の思う通りにして見ようと思った。お白粉もそんなにはつけず、一寸の間にお敬ちゃんのかおはまるで違って鏡にうつった。
 二人は一つ鏡に並んで座って、笑い合って見て居た。
「もうあっちにきましょう」
 お敬ちゃんは前歯で帯どめをかみながら先に立った。小声で「己が姿を花と見てエ」ってあの歌をうたって居る。
 私はもう、何とも云われない、おだやかなボーッとなる様な気持で、こまっかいふし廻しの唄をきいて居る。
 私の頭ん中には、もうよっぽど前っから思って居た事が、今日現れたと云う様にこんなにうれしいしずかな一日を暮される事が涙のにじむほどうれしかった。
「こんな好い日を送られるのも私達が若いからだ」
 フッと思って私は自分の肌からにおって来るあまい香りを、いつまでもいつまでもしまっておきたかった。

     〔無題〕

 何となく斯うポーッとする様なお天気なんで、血の気の多い女は身内からうずかれる様な気持になった。
 ムッチリした指の先や白い足袋の爪先を見ながら、ひざの上にひろげてある『桜の園』のまだ買いたての白い紙をチョイチョイ見た。
 さあこの庭をなあ、借金の形にとられてしまうなんて云うのは……
 あら御覧、死んだお母さまが庭を行くよ……
 こんな字が意味もなくなって頭にうつって居る。
「アアアア」うんだ様なけったるい声を出して、男の事を思いがけない時に好いものをひろった時の様な表情をして考え始めた。何にもない宙に二つ目が笑ってうかみ出た。ツウツウ――眉が引ける、鼻が出る、白い、気持好く力のこもったひたいがうかんで口が出来てそれからうす赤い線がこのまばたくまにならんだ小っぽけなものをかこんで、その線の上にあるお米つぶほどのほくろさえそえて――男のかおが出来上った。
 そのうす笑いをしたかおを手の上ににぎって見たり、向うの方にほうりつけて見たり、髪の毛の間にたくし込んでしまったり、ややしばらく、いたずらっ子が猫をおもちゃにする様に自分もうす笑いをしながらたのしんで居た。今まで少したるんで居た心は、急にキューッとしまって頬やこめかみのところにかるいけいれんが起って――いかにも神経質らしく女はその丸っこい手をふってかたをゆすった。
「斯うやってポッカリと浮いた様な様子をして居られなくなっちゃった」
 なげつける様に云って、寝椅子からとび上って湯殿にかけ込んで、水道の下にかおを出してザアザア目をつぶって水をかけた。白いタオルでスーッとふいて四季の花をつけて、西洋白粉をはたいて、桜色の耳たぼとうるみのある眼を見つめた。女らしいやわらかさとかがやかしさを今見つけた様に、
「だから女がすきだって云うんだ!」
と鏡の中の自分に云った。一寸首をかしげてあまったれる様な様子をして笑って見た。白いよくそろった前歯は、まっかな唇の下に白い条を引いた様に光って出た。
 ソーッと頬を両手で押えて見たり、眉をかくして見たり、唇をつまんで見たりして居るうちに、たかぶりかけた感情は益々動いて、重っくるしい様なくすぐったい様な気になって目の中に涙がにじみ出て来た。
「行って来ようや、しようがりゃしない!」
 麻の葉の着物の衿をかき合わせて、羽織のひもを結びなおして髪をすいた。こんな事を出がけにはどんな時でも忘れずにするって云うのも女だからなんかと思いながら、上り口から低い赤と白の緒の並んですがった白木の下駄をつっかけて出た。
 うすっくらいほそい町を歩きながら、女は懐手をして小石をつまさきでけりながら、今にもうたをうたい出しそうな、男の姿が見えたらすぐとびついて抱えそうなはずんだ気持になって居た。
「夜という仮面をつけたりゃあこそ、さもなくば気恥しゅうて此の頬が紅の様に紅うなろう……」
 自分が始めて云い出す事の様にふくみ声で云って目をあげてうす笑をした。
 男の家の丸アルいくもりがらすの電燈が見え始めた。この頃道ぶしんで歩きにくく、わざとする様にまかれた砂石の道を人の居ないのを幸に足の先の方で走ってくぐりをあけるとすぐうたをうたう様な声をあげて、
「居らっしゃる?」
と声をかけてチューリップの模様の襖のかげから出て来る男の姿を描いた。
「お上り、随分思いがけない時……」
 男の声が思いがけなくほんとうに思いがけなく二階から頭の真上におっこって来た。
 妙にくねった形をした石の上に下駄を並べて階子をかけ上った。
 障子はすっかりあけはなされて、前の時にもって来たバラがまだ咲いて居てうす青な光線が一っぱいにさして散らかった紙の上に男の影がよろけてうつって居た。
「いそがしいの? 今日は来る筈じゃなかったけど例の気まぐれで――用事をしてらしったってかまわない」
 女はあんまり下らない言葉だと思いながらこんな事を云った。
「アア、そんなじゃないけどとにかくひまじゃないんだ」
 男はたるんだ声で云ったのがふくれきって居た女の心をひやっこくスーッとなぜて行った。女は急に影のさした様な気持になって、机のはじにチョンと腰をかけながら、濃い房々した男の髪を見ながら、
「あんた、今日どんな気持でらっしゃる? ふやけた様に――たるんでるんでしょう?」
 口元をゆるめないで女は云った。
「又始まった、だだっ子だなこの人は――」
 男は何でもない様に云って、ねりそこねたうどん粉の様な笑い方をした。
 男のする事や云う事は、女の心に入って行く時にはすきだらけの、みっともない下手なお化粧の様になって、ほんのちょっぴりうしろにむきかけた女の心を段々とあと押しをした。
 女がしまった心で居るのに、男の方ではすきだらけで何でもないただの人をもてあつかって居る時と何の変ったところもなく、「ほんとうにネ」「そうだ」「違うよ」と云う言葉を繰返し繰返しかんしゃくがこみあげて来て、くしゃみが出そうになるまで男は繰返した。
「アア、私来なきゃよかった」
 あきらめた様な口調に女が云った。
「マア、どうして?」
 男はフイにどやされた様な声で云った。
「貴女があんまりのんべら坊としてる――すきだけらで下手な話ばっかりして――
 一人ごとを云ってたっても、少しはしまった事が云える――」
「…………」
「もっと張りがある様にしましょうよ、そいで調子よくネ、考えなくっちゃあならない事、云わなくっちゃあならない事が山ほどあるんじゃあありませんか……」
 そう云って居るうちに、何とはなしに女はうっとりとする様なかるい悲しさにおそわれて来た。
 男はだまって廊下ごしに向うの森を見て居る、口の辺にはうす笑が満ちて居る。罪のない様なかおを横から女はしげしげと見入っていつの間にか自分までつりこまれてうす笑をした。
「いいあんばいだ。ようやっと少しは柔い気持になれる」
 斯う女は思って先にかがみの前でした様な様子を、器用に手早にさせて男の肩を両手でゆすぶった。
 二人は崩れた様に笑った。
「何さっきあんなけんけんした声を出した?」
 男は女の小指をひっぱりながら目を見て云った。
「何故って、かんしゃくが起っただけ――」
「馬鹿なこだよ、
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