居ました。紺色のカシミヤの手袋をはめて、白い大きな皮のえり巻をして行ったんでした。
母とmとの間にはさまれて歩きました。
安っぽい絵襖紙を見る様なギラギラした感じのする下びた町すじを母の手にすがりついて物なれない人の様に特別な感じをうけながら――。行きずりのでれついた男達は私の顔をチラッと見ては意味のわからない事を早口に云ったり相手を私の方につきとばしてよこしたりして行くんでした。その中にはまだ私と同い年の位の小供から大人になる境の丁度小供の蛙みたいなととのわないみっともない形と声をもって居る男も交って居ました。そんな男を見るたんびに私は下等なきたない事ばっかりを思い出して一々知らず知らずに眉をひそめて行きすぎたあと一間ばかりは早足に歩いて居ました。
「こんな所にたまにくると嗜味が低くなった様なうすっくらい様なところにひっぱりこまれる様な気持がしますネエ」
私はこんな事も云いました。
人と沢山沢山すれ違って漸く私達は目的にして居たクオ・バディスをして居る活動の前に立ちました。
私は家を出るときから斯うした冬の夜に歩くという事や、始めて活動専門のああいうところに入って見るという好奇心やその映写されるものをうれしがる心等がごっちごっちになって訳のわからない気持になって居たんでしたのに、アア、私はもう一足も進みたくないほど不愉快な気持になってしまいました。
入り口のすぐせっこい段々になって居るって云う事も案内女のいかにも浅草式な赤いかなきんの妙てこなものを着て白粉をコテコテぬって歩くのにみにくい私がはずかしくなる様な曲線をつくって居るのなんかは私の心を涙をこぼさせそうにしてしまいました。
そいでも私達は目をつぶる様にして入りました。内はアノ玉乗なんかの様なきたならしい座布団をしいて座るところでした。三人はせまいところにキチンと座って、半ばから来てよくつづきの分らないフィルムの動き方を見ました。私の囲りはみんな若いやすっぽいかおっつきの男達ばっかりでした。
いきなり座った私を間違った事をしたあとの様な妙なかおをして見て居ました。
その中を私は女王の様なツンとした態度と気持をもって正面をジッと見たっきり囲りのものを私の下におしつけた様な、このフィルムを私一人のために動かさせて居ると云う様な気持になって居ました。
いろいろ道々して居た希望なんかは九分通りまでぶちこわされましたけど、たった一つ最後の最も強い望は私の満足するだけ又それ以上なものになって私の前に展がって行って呉れました。
白百合の様な姿とダイヤの様なかがやかしい貴い気持をもったリジヤ姫、男獅子よりも強い忠僕のウリセス、ラクダの様な猿の様な狐の様な鼻まがりの悪党のチロポンピヤ、ビニチュース、ネロ、ペテロ、そうした人達の間に生れて来る大きな尊い芸術的な悲劇の中に私の心は段々ととけこんでしまいました。
自我の享楽のためにローマの古いいくたの歴史の生れた市を火にしてその□[#「□」に「(一字不明)」の注記]に薪木からのぼる焔に巨大な頭をかがやかせ高楼の上に黄金の□□□□[#「□□□□」に「(四字分空白)」の注記]の絃をかきならして大悲劇詩人の形をまねて焔の鬨の声とあわれな市民の叫喚の声とをききながら歌うネロの驕った紫の衣冠はどんなにかがやき、その心はうれしさにどんなにふるえただろう、私はそう思ってどうしていいか分らないほどの感じに足の先から頭の先まで波立って居ました。
この上なく、一寸さわるとはちきれそうにしなった気持、純な感情のどれほど私の顔の上に表れて居るかって云う事は自分でさえ知る事が出来ました。
「あんまり何なら見ない方がいいよ」
母はこんな事を云うほどでした。
ざっと四時間ほどの間私は一寸もゆるみのない気持で見て居る事が出来ました。
一番おしまいのフィルムを巻き終った時もそこを出て道を歩いて居る時も私の心は芸術的なととのった形になって今ここで一声うたい出したら死ぬまでつづけられそうな詩が出来そうな自分の心持の全体が一つものに結晶してしまった様なだれにもさわってもらいたくない気持になって居ました。
母とmさんは御土産の相談をして居ました。
母はかなり綺麗な女の居る店で、かわいらしいこんな時ににあわしいお菓子を買いました。
「お父さまにネ」
こんな事を云って居るのもいかにも柔くやさしく私の心にひびいて来て居ました。
うすっくらい悪い事の胞子がいっぱいとび散って居る様なまがりっかどの、かどに居る露店のおばあさんのところに先有楽座の美音会の時にあった様なとんだりはねたりや、紙人形やなんか私のすきらしいものばっかり並んで居るのを母は目ざとく見つけて呉れました。
私はその前に後にそる様ななりをして立ちどまって調和のいい色をした小さいの二つともっとやすい大きな兎と蛙とお獅子のをふくろに入れてもらいました。
それを二本の指でつまんで小供げな様子であの仲店の敷石の上を羽二重の裾を気軽らしくさばいて二人にかるい調子で話をしながら歩いてかなり混んだ電車にのりました。一番はじっこにむずかしい顔をして額を押えて居た四十位の商人は私の大きくくった袂をぎごっちなくひっぱって自分のわきのすき間に腰をかけさせてくれました。私はその男のかおを一寸見てすぐ、
「私を私の年以上の女だと思って居る」
こんな事を知って悪がすこい笑いを心の中にうかべました。そうしてそのせまっこいところに座って窮屈な思いをしながらもまだすましたとりつくろった顔をして白いうすい紙を通してとんだりはねたりの色や形を思って居ました。
二つほど停留場を行った時に一人間の悪そうなかおをしてのった十九許りの制服を着て居ながら学生らしくない書生が私の前に一つあいて居たつり革にぶらさがりました。私は今まで少しゆるんだ心を又キューとはって、前よりも一層つくろった憎らしいほどすました様子をしました。
その男は油ぎった何とも云われないいや味な様子をして軽いカーブを廻る時、一寸止った時、そんな時わざわざよろける様にしては私のひざを小突まわすその意味が恐ろしいほど私に分りました。
私はその男の心をすっかりよみつくしてしまった様な顔色をして正面を見つめた眼をうごかしませんでした。そうして一寸さわったり小突いたりするたんびに、それよりもつよく目立つほど私は動[#「動」に「ママ」の注記]をうごかしてその男の私のそばによれない様にして居ました。
こんな事のあるのも浅草だから――私はあきらめた様にこんな事を思って居ました。
私が山下で降りるまでその男は私の前を動きませんでした。男の動かないと同じ様にそのどんづまりまで女王の様なツンとした態度をゆるませませんでした。
電車を降りて車にのった時、私はその男に勝った様にあの男の時々したうだうだな様子を思ってうす笑いをしました。
三年振りで行って見た浅草の町の空気の中から私はいろんな今までとまるで違った感じを得たんでした。
私のほしいと思って居た浅草提灯はなく、三年前頃までのあすこの空気とまるで違った、前よりも一層なつかしみのない三年に一度位行く筈のところの様に思われて居ました。
銀座の町のすきな私は、浅草の町に行ったと云う事が恋人の外の男としたしくしたのを女が悔いる様に私はよけい銀座の町にはげしいなつかしみをもってる様になったんでした。
〔無題〕
外には木枯しがおどろくほどの勢で吹きまくって居る。私は風を引きこんで出た少しの熱に頭中をかき廻される様に感じながら、わけもなく並んだ本の名前を順によんで行って見たり読む気もなくって一冊ずつ手にとったりして居た。
ひがみ根性の様な耳なりはどんなにしてもまぎらせられないほどつきまとってシーンシーンとなって居た。
だれにあたり様もない私は、いまいましそうに壁をにらんだり綿細工の狸をはじきとばしたりした。
「いやんなってしまう」
私はわきの筆立にみっともない形をして立って居た面相をとって歯の間でそのこじれてかたまった穂をかんだ。恨んで居る様なゾリゾリと云う不愉快な音はあてつける様にほそい毛の間から起った。
玩具のふくろうを間ぬけな目つきをしてポッポーと吹きならして見たり、とんだりはねたりもんどりうたして見たり、盛花の菊の弁をひっぱって見たりして、私はどれからも満足したふっくりした気分をうけとれないいまいましさに、いつものくせにピリッと眉をよせた。
若し私のわきに私より小さな妹だの弟だのが居たら、訳もなくっても大きなこえで叱ったりつきとばしたりしたかもしれないほどムラムラして居た。
「せめてM子でも来ればいいのに……」
この頃一寸もたよりをよこさないM子や、あとあしで砂をける様にしてそむいたK子の事等が身ぶるいの出るほど腹立たしく思われた。
「M子のたよりをよこさないのや、来ないのは、私は快く許してやるけれ共、Kのそむいたのがどうしてゆるしてやれるもんか……」
わけをも云わずに毎日会う毎ににげて居る様な様子をするK子がたまらなくにくらしい。
「あの人と私は、どうせ違ったものになってしまうんだからかまうもんか……
あの人は云いなり放だいに奥さんになって子供をポカリポカリと生んで旦那に怒られ怒られて死んでしまうんだ。それよりは私の方がまだ考え深い生活をして行かれるに違いない。
マ、いいさ、どうせ人間同志のする事だ。たかがきまって居る」
私はまけおしみの心でこんな事を考えた。
私は一度妙な様子をされた人にこっちから頭をさげて「どうぞネ」なんかと云って又仲良くしてもらうんなんかって事はしたくない人間なんだから……
独りぼっちにされたって、やっぱり何ともない様なかえって愉快そうな笑いがおをして暮す人間なんだから、私は友達なんかなくったっていいんだ、本さえあれば。友達に、しかも並々のより一寸仲よくした位の友達にそむかれたって、泣きっつらをするほどのいくじなしじゃあない。
私はまけ惜しみづよい自分を不思議に思いながら、やっぱりまけおしみづよくこんな事を考えた。
「どうせ――どうせ」
斯う思って居るうちにちゃっこい人を馬鹿にした様な涙が、ポロポロと意気地なくこぼれた。
「そいでもやっぱり涙をこぼすワ」
私の一方の何でもをひやっこい目で見て居る心がささやいた。
「アア、アア」
K子の心のそこにまでふき込んでやりたいと云う様に深い溜息をついた。
目をつぶって手を組んで、私は出来るだけ頭をもちゃげて――丁度我ままに育てられた放蕩息子が、母をくだらない事でビリビリさせて居る様に私の心を何かとっぴょうしもない事をしでかすまいかしでかすまいかと案じさせるかんしゃくをおさえた。
目をつぶった前にK子の笑いながら私の心を掠め奪って行った様子やHの丸い声や、M子の内気らしい肩つきなんかがうかんで来た。
フイと目をあいた時、おそろしい力でとうてい私のおさえる事の出来ない勢でかんしゃくの虫があばれ出した。私は歯をくいしばったまんま、ツイと手をのばしてわきにたて廻してあるはりまぜの屏風のうらをひっかいた。浅黄色の裏は、
「ソーレ」
と云った様に白いはらわたをむき出した。
千世子のどうしようもないかんしゃくを、嘲笑う様にあさぎのかみはヘラヘラヘラとひるがえってペッタリとはりつくかと思うと、パカンと口をあいて千世子の心をいじめぬいたあげくだらんと下ってそのまんま死んだ様に動かなくなった。
私はそれを目をはなさず見て居た中にそのひるがえる毎にKのあのふくみごえの笑いごえが交って居る様に思えた。
「HさんとMさんと母さん」
私はなげつける様にどなって、ひやっこいたたみの上につっぷした。
こぼれ出る涙が畳の上に涙のうき島をつくって、そこの女王に私をしてくれる様に思ってうす笑いながら私はなきつづけた。
雨の日
外はシトシトとけむる様な雨が降って居る。私とお敬ちゃんは、紫檀の机によっかかって二人ともおそろいの鳴海の浴衣に帯を貝の口にしめて居る。紺の着物の地から帯の桃色がういて居る。
「ほんとう
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