Aと定ってしまった処に――現在の社会では、定めるべく余儀なくされる処に、第一の苦源があるんです。だから、双方の感興、新鮮さを溌溂とさせて置くためには、どうしても感情的変化に富んでいなければならない――或る不安、緊張、亢奮が薬になるんです。
みさ子 (真面目にきき、考えつつ、疑わしそうに)そうお? そうかしら――そういう胸のわくわくするような心持は、恋人同志の時代のものじゃあなくって? 若しかしたら(笑う)恋人前期よ。恋人だって、お互のほんとの愛がわかり、信じられたら、そんなに気は揉まないんじゃあないかしら。勿論、相手の人が、どれだけ自分を愛してくれるか、まして、好きか嫌いかさえ解らないうちなら、不安にもなり、緊張もするだろうけれど。
谷 結婚してしまうと、男も女も、皆そういう楽天家――凡庸主義に堕してしまうから、生活が重荷になるんですよ。大抵の女の人が会って面白いのも、結婚する迄じゃあありませんか。一旦、奥さんになったとなると、誰某アンネックスで、まるで気抜けになってしまう。
みさ子 だけれども、生活が気持よく行くというのは、ただ相手の技巧や「面白い人」許りではなくってよ。面白い人間という人なら、ざらにあるわ。ちっとも面白くない人だっていいから、気持の満干が、ぴったり両方で合うということが大切だと思うわ。
谷 気持の満干そのものが、既に感情の弾力じゃあないかな。活々した流動を起すには、いささかの冒険、心もとなさが、入用だというのです。
みさ子 貴方は――こうなのね。この人が厭で詰らなければ、また別な人、という人の方が変化があるとおっしゃるんでしょう?
谷 たとい、実際行ってしまわないでも、それだけ張《はり》のあるということですね。
みさ子 まあ一寸風をする、というの? いやあね。私そんなのは嫌いだわ。行くんならほんとにさようならをするほかない、いるんなら、どんなにでもしている。――
谷 それで――あなたは後の方だ、とおっしゃるんでしょう?
みさ子 (殆ど痛ましいほどの顔をし)あの人ほか私に大切な人はいないんですもの。
谷 その大切さを奥平さんにも感じさせるためには、あなたが、もう少し彼の方を、はっ、とさせなければ駄目です。自分の心には、今二つの愛がある。そのどちらを取るかというようなことで、彼の方を、もうちっと反省させ苦しませて上げるのです。しんから、ほんとの愛が輝き出すか、詰らない石ころが転り出るかを、知るためにね。
みさ子 (絶望的な烈しさで)私二つの愛なんかありはしないわ。たった一つよ。(思い切って)奥平が可愛いだけだわ。あの人に可愛がって貰いたいだけだわ。
谷 だから、それほどの愛に報いられるためには。
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二人の会話をきき、歩き廻っていた英一、殆ど、顔色を変え、
[#ここで字下げ終わり]
英一 谷! やめろ。まるでみさ子さんを苦しめているじゃあないか!
谷 (微かな亢奮を持ち)苦しめるのじゃあない。終局に於て、持っていられる感情を、一層純粋に生かすためだ。
英一 傍で聞いては、まるで誘惑しているとほか思えやしない!
谷 ――橋詰。君の態度は、失敬ながら、崇高じゃあないよ。他人を非難することは、何も自己の優越を表しはしない。――(英一を見守り)男一人の心、で当ったらいいじゃあないか。(独白的に)君のみさ子さんに対する友情[#「友情」に傍点]はよく判っているよ。
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英一、みさ子の方をちらりと見、あわてて何か云おうとする。みさ子、二人の会話はきかず、掌に顎をのせて考えている。この時、さっと立上り、考えを変えようと、頭を振り。
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みさ子 さあ……もう議論はやめ。――紅茶でも入れさせて来ましょうね。(去る)
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沈黙、穏やかでない雰囲気の裡に、谷、英一、顔を見合せず、動かず、幕。
第二 庭
常緑樹の深い植込み。間を縫って、奥の方に小径があり、上手、屏風のように刈込んだ檜葉《ひば》の下には、白い石の腰架《ベンチ》が一つある。
傾いた午後の日が、穏やかに明るく、緑樹の梢、腰架の縁などを燦めかせる。
幕開く。
みさ子、谷、上手の方から悠《ゆっ》くり連立って出て来る。
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みさ子 あの薔薇だって、爺やが丹精してくれるから綺麗に咲いたのよ。私も、奥平もいっこう構わないんですもの。
谷 ここはいつも気持がようござんすね。(四辺を見廻し、腰架に掛ける)
みさ子 (離れて立ったまま)英一さんはどうしたんでしょう、直ぐ来るって云いながら――
谷 奥平さんに用があるんでしょう。(皮肉な調子)
みさ子 奥平に? そう? ちっとも知らなかったわ。それならそうおっしゃればいいのに――。妙な人!
谷 そう、くささずに置いてお遣りなさい。あの男は、あなたのことといえば、真剣なんだから。
みさ子 ――(意味を解しかねて谷の顔を見る)
谷 僕が、あなたに勝手な熱を吹くと思って、お冠を曲げたのですよ。然し……あの男の思うほど、僕は「不良」じゃあありませんよ。これでも――(調子を変え)実際、今日のような話が、あなたと出来るとは思いませんでしたね。
みさ子 (谷の心持が解らず)どうして?――別に、何にも、人間のしない話をしたのじゃあないわ。
谷 ――一年昔のあなたは、幸福過て、思いのままでありすぎて、僕なんかには眩しいようでした。却って、薄すり雲の湧上った今の方が、遙に人間《ヒューメン》的で、あなたの情熱も純粋さも美しく見える。(みさ子の顔を見る)
みさ子 (漠然と不安を感じる)何を云っていらっしゃるの。美しければ美しいほど猶結構じゃあないの。――さあ、裏へ行きましょうよ、あんなに薔薇、薔薇って云ってらっしゃった癖に……(谷を促す)
谷 じき行きます。然しね、実際、僕は、いつかきっと今日のような時が来ると思っていたんですよ。まるで、軽風に頬を吹かれて、花束を振るようなあなたが、いつか、自分の愛や、人間の愛ということに就て、深い疑や苦しみを味うようになるだろう。そうしたら、始めて、私の、あなたに対して持っている心持も理解して貰えるだろうとね。
みさ子 (疑わしそうに、凝っと谷の顔を見守る)私、自分の苦しみや寂しさを、たとい、誰にでも、利用されてはいられなくってよ。
谷 まるで異う。一つの道から、もう一つ先の、明るい、輝やいた路へ出る手助けを、僕ならさせて頂けると信じていたのです。僕の、あなたに対する愛は――云うことを許されれば――恐らく、あなたの御良人のように、所有慾から生れたものでもなければ、英一君のように、自分の無力を偽善で被うたものでもありません。あなたという人を心にも体にも、美しさ、愛らしさの絶頂に置いて見たい。何からも自由にし、私が陰から照らす光りで、あなたを、漂う金色雲のようにしてあげたいのです。
みさ子 (不快と畏れとを示し)貴方はいやね。そういうことをおっしゃるために、わざわざ薔薇をだしにお使いになったの? 私、こそこそ話は大嫌いよ。それに(力を入れ)――私は、ちっとも、貴方になんか助けて頂こうとは思っていなくってよ。また貴方こそ、私をほんとに愛して下さる方だとも思えやしないわ。芝居はやめ! お友達か? そうでないか? それっきりよ。
谷 奥平さんの存在を、直ぐ頭に持って来るから、あなたはそうむきになるんだ。そうでなく、深く、冷静に、人間の感情生活ということを考えて――抑制と爆発は、決して別々なものじゃあない。いつか……
みさ子 貴方――貴方は、私のしんの心持が解った積りでいらっしゃるの?(静かに、寂しそうに)若しそうだったら、大違いよ。奥平さえ解ってくれないんですもの。私位の年の女が、一旦可愛いと思ったらその人のためにどれほど全心を集注させるか、そのために歓び悲しむか、大抵の男の人になんか、わからないんだと思うわ。選択以上なのよ。たった一人っきりなの。見限って棄てられる愛なんか、まるで、まるで遊びだわ。よかろうが、悪かろうが、その人の可愛い自分の心を、どうしようもないから、苦しむのじゃあないの?
谷 そういう心持も、僕は時間と程度の問題だと思うな。人間が愛されずに生きて行かれますか? まして、あなたのように暖い、愛されたい人が。
みさ子 谷さん! それだけで、もう貴方が、どんなに私から遠い人だかがわかってよ。どうして、私が求めても得られないで苦しんでいる愛を、そう惨酷に摘発なさるの?
――もうおやめなさい。――お友達にしたって、変な、いやな気持になってしまうじゃないの。
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みさ子、歩きかける。
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谷 まるで子供扱いでは、僕も云いようがなくなります。然し――みさ子さん、これだけは云わせて下さい。愛には、勿論、種々様々な形と内容とがありましょう。けれども、結局、鳴らぬ笛は、鳴らぬ笛なのです。――(腰架《ベンチ》から立つ。)それでは、裏へ行って見ますか?
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みさ子、黙って先に立って行く。
殆ど、入れ違いに、下手から、英一、奥平、低声に話しながら出て来る。
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英一 (圧えた声調で)――実際、僕としてこういうことを云うのは苦痛です。一方では、谷との友情を裏切ることになるし、また、貴方に対しては、そんな責任のない交際を始めさせたという点で。けれども、貴方が、僕にかけていて下さる信頼を思うと、つい黙っていられなくなったのです。
奥平 (陰鬱に)いや、有難う。御厚意は感謝します。
英一 (奥平を偸見《ぬすみみ》)けれども、くれぐれ、僕の申上た点を誤解なさらないで下さい。これだけは、僕一生の願いです。僕はただ、みさ子さんが、まるで無邪気で、子供のように思ったことを云うのに、それを間違っても、あの男になんか悪用させたくないから、御注意したのですから。
奥平 (神経的に)実に人間の心などは頼みがたいものです。自分は、自分のよしとするところを実行するほかない。(考えに沈み、両手を兵児帯の後に挾み、彼方此方歩く)彼女《あれ》が、心に確かな根柢の出来ていないことは、私も前から知っていました。よく云いもしたのだ。いつかこんなことでも起らねば好いがと思っていたが……
英一 (絶えず不安そう、奥平に近より)ね、奥平さん貴方はほんとに誤解していらっしゃるんじゃあないんでしょうね。何も、不名誉な事実なんか決してあるんじゃあないんです。ただ、
奥平 誤解はしていない積りです。――然し、事実というものの範囲を、どこまでに限ったら好いか。
英一 貴方の立場として、どれほど不愉快に感じられるか、僕は御同情します。けれども(俄に)みさ子さんに、不当な監督なんかなさりはしないでしょうね。
奥平 (投げたように)彼女《あれ》は、彼女《あれ》のしたいようにすれば好いのです。私は、それをとやかく云う権利はない。
英一 (呟く)何だか不安だな。恐ろしいことになりそうだ。奥平さん、どうか、僕にだけ、貴方の取ろうとなさる方法を話して下さいませんか。ひどく不安心です。
奥平 私が、自分の心持なり考えなりを、小説家のように巧く云い表せれば、何も面倒はないのです。私は、喋れない。思ったこと、考えたことを実行するだけだ。また、それでよいと思っています。黙っていて解ってくれないような者に、何も自分から説明する必要はない。――君は、とにかく私の信頼する一人の友人として、自分の責任と思うところを果されたのだから――どうぞ安心して下さい。なるようにほかならない。
英一 (猶圧迫を感じ)けれども……
奥平 人生は、快楽のために出来ているものではないのです。生きている間じゅう、苦しまなければならないのが、人間だ。与えられた杯なら、飲まなければならない。
英一 どうぞ、貴方もみさ子さんも傷つけるようなことはなさらないで下さい。――実際、僕は、何もみさ子さんまで……
奥平 ――(陰気に光った眼で、じろりと、臆病な英一の顔を見る)
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突然、背後の植込みの蔭か
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