轣A甲高く、はっきり、
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みさ子の声 いやよ!
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奥平、英一、思わずぎょっとするところへ、みさ子、足早に出て来る。二人を見、
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みさ子 まあ、貴方もいらしったの?(嬉しそうに、奥平の方によって行く。)
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直ぐ後から、谷、両手をポケットに入れ、眉を顰めて来る。
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英一 (意を迎えるように)どうだね。いい花があったかい?
谷 (英一を見、奥平を見、鋭く)花なんかないよ。昔話だ!(さっさと一人で通り過ぎようとする)
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英一、不決断について行こうとする。その時、ただならない奥平の声が、彼を振返らせる。
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奥平 (近づくみさ子を避けるように、二三歩動きながら)――私に構わず置いてくれ!
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みさ子、驚き、良人、英一、谷と、順に顔を見る。英一、頭を動してその視線を避け、見向きもせずに彼方に行く谷の後から、救いを得《もと》めるように、蹤《つ》いて行ってしまう。みさ子、再び、良人を眺める。
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みさ子 貴方――どうなすったの?
奥平 …………
みさ子 ね、どうなすったの?
奥平 (傍を向き)悲しいことに、私も人間だから、自分と直接、関係のある者の行為には、心を支配されるのだ。
みさ子 ……(苦しそうな表情となる)……。
奥平 私は、就くものはつき、離れる者は時が来れば離れずにいないと思ったから、別に云いもしなかったのだが……。今でも、私は何の制限も、あなたに加えてはいないよ。断って置くが……
みさ子 (実に驚き)まあ、貴方! 何を思ってらっしゃるの? 何を感違いしてらっしゃるの?
奥平 何も、感違いなんかしていない。事実は、事実だ。
みさ子 (一層、良人の傍により)私が何をして? 貴方。――(思いつき)ああ、今私があんな大きな声をしたのを変に思っていらっしゃるんじゃあないこと? 何でもないのよ、あれは。谷さんが、今日は妙に感情的だから、もう散歩なんか一緒にするのは、いやよ、と云っただけなのよ。
奥平 (険しい眼付きをし)感情的には誰がしたのだ。
みさ子 (良人を仰ぎ)貴方!
奥平 独身の、あんな生若い男に、若い、結婚したばかりの女が、自分の生活の不満や苦痛を訴えるのは、何を意味するか。考えて見たら、誰にでも解るじゃあないか。
みさ子 (思いがけず。却って落付き)聞いていらしったの?――却ってよかったわ。でも――立ち聞きをなさるなんて――(消え入るように)何て方でしょうね。
奥平 英一君に聞いたのだ。
みさ子 (はっきりと侮蔑を感じ)あの人が? 何て云ったの?
奥平 そんなことを、今ここで再び繰返す必要はない。ただ――私は――僅かの間でも、あなたの良人であったことを気の毒に思うよ。適当な人間ではなかったのだ。少くとも、あなたの悦ぶ男ではなかったのだ。然し(刺すように)誰一人私にそのことを知らせてくれる者はなかった!
みさ子 (蒼くなり、良人の手を掴み)貴方! 後生だから、その変な、貴方の頭にあるものを棄てて頂戴! ひどい思い違いをしていらっしゃるわ。何ていうことだろう。私は、これっぽっちだって、谷さんなんか愛していやしなくってよ。
奥平 (疑い深く)どうしてそれが断言出来る? 自分が侮蔑し、価値を感じないものに、あなたは自分の苦痛を訴えるか? 下男に泣言が云えるか? 自分が、より好意を感じている者に対してでなければ、人間は、決して自分の弱点は示さないものなのだ。
みさ子 ――私は、ちっともそんな風には考えなかったわ。私の苦しみは、私の弱点? 私は、ただ、もとから種々なことを話して来た友達に、自分の心持ちを云っただけだのに。――
奥平 つまりそれほど、心の親しみが深いということになるのだ。離れ難く思うからこそ、どんなに境遇が変っても、その友情だけは、保って行こうとする。――(堪え難いように、ばしばしと)私は、はっきり云って置くがね、決してあなたの重荷となる積りはないのだ。私はいつでも、悦んで、あなたに自由を与える。よく考えて、遠慮はいらないから、自分の行きたい道を進めばよい。ああいうこともあった、と私は万事を、過去に埋めてしまおう。それが一番いい。私には――私の書斎がある。……
みさ子 (涙をこぼし)そうよ! 貴方には貴方の書斎がある[#「書斎がある」に傍点]。だから、そんなことをおっしゃれる。自分が、どんな大間違いをしているか、考えようともなさらないで、よく貴方は、そんなことがおっしゃれるわね。……私には……私には貴方っきりほか、ありはしないわ。何も、ありはしないわ。だからこそ、貴方になんか、相手にもされない苦しみをもするのじゃあないの。
奥平 (冷やかに)愛は、苦しい筈のものではないよ。愛し難い者を愛そうとするからだ。
みさ子 (首を振り)いいえ。いいえ。どれだけ、私が可愛いか、貴方が判って下さらないからよ。
奥平 ――私は、若し強いられたのなら、たとい、事実上過ちがあったとしても、許す。けれども自分から、自分の心も相手の心も翻弄する人間との関係は堪えられない。――苦しめられたくないのだ。――いくら、価値のない人間でも自分の魂の平安を守る位の権利は与えられているだろう。
みさ子 (涙と一緒に奥平の手を揺すり)ああ。貴方は恐ろしい方ね。言葉の裡にある真実を、ちっとも聞こうとはなさらない。ね、どうしたら、私の心がわかるの? どうしたら嘘を云ってはいないのがわかって?
奥平 事実が言葉と合致すれば。
みさ子 だから、さっきから云うじゃあないの? 私は――ああ(激しく泣く)云うのさえいやだわ!
奥平 人間には、言葉以上に微妙な世界があるものだ。まして、異性間の感情には。――あなたは、谷を愛していないと云う。或は、事実だろう。然し、一方に、私は、また、愛している事実も認めずにはいられない。(憤りをはくように)愛します、と誓った愛が嘘になる時もあるように、愛さない、という愛が、却って真実なこともあるのだ!
みさ子 ああ。ああ。こんなに愛しているのに。貴方には! こんなに、可愛いのに!
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みさ子、泣きつつ、子供のように自分の額を、良人の手に擦りつける。
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奥平 (苦々しげに)亢奮が、何の解決になるのだ。……
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みさ子、頭を擡げる。良人を見、絶望でくい入るように、
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みさ子 ああ、貴方は開かない扉《と》よ。叩いても、叩いても開かない扉《と》よ。――私はどうすればいいの?――人間は、言葉でほか、自分の心が表わせない。(烈しい歔欷《すすりなき》。)その言葉を信じられない時。――(蒼白な顔となり)昔の女の人は死にました。私が死ねなかったら――。貴方は、それ見ろ! とおっしゃること?(良人に、じりじりと迫る)それ見ろ! 谷を愛していたのだとおっしゃること?
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奥平の手を掴み、そのまま凝固したように立ち竦む。恐ろしき寂寞。一秒……二秒……さっと 幕。[#「幕。」は地付け]
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
1979(昭和54)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月8日公開
2003年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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